橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第1章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 【第1章 西洋科学の精神】

《概要》

 西洋科学の営みにおいて、新発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認・非承認を受ける。一方東洋においてこの科学的大気は発生しなかった。その事例として、コッホによる日本の西洋医学についての批判があげられている。なぜ東洋科学は西洋科学の営みと異なるのか。それについてアルバート・アインシュタインは、古代ギリシアから時を経てこの科学的大気が西洋で醸成されてきたこと、それ自体が驚くべきものであると述べている。

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 西洋科学の精神は2000年かけてつくられたものであり、一生かけてそれを習得していくのだと主張したのは、ドイツの医学者エルヴィ・フォン・ベルツであった。彼はお雇い外国人として日本に長期滞在し、西洋医学教育を行った。日本は科学的理論の輸入はしたが、その精神は持込きれてないと指摘していた。彼の言う西洋科学的精神を学んだ人物として、1890年に破傷風の病原菌を発見した北里柴三郎があげられる。北里は東京医学校を経て内務省衛生局に勤務し、1888年にベルリンの帝国衛生院へ留学した。留学先で師事した細菌学の父ロベルト・コッホから、この西洋科学的精神を学んだことが垣間見れるエピソードがある。すなわち、北里の先輩であり指導者であった緒方正則が脚気の病原菌を発見したとき、北里はコッホに促されてその吟味に取り掛かったところ、その発見が誤りであることがわかった。その指摘を公表することにためらいをおぼえたものの、科学研究における論理は私情を超えたものであるとコッホに説かれ、公表したという。北里の師コッホは、黴菌病因説を唱えた人物であった。コッホは新しい病原菌が発見されるには、その病原菌が、①当該病気の体内に規則的に見出されること、②病状のないところには見出されないこと、③培養された数世代後の菌でも同じ病気が生じること、という「コッホの条件」とよばれた三つの条件を提示した。この研究の背景として、顕微鏡の性能が向上による微生物研究が発達がある。微生物研究の代表的な人物として、生物学者ルイ・パストゥールがいる。彼は、微生物が発酵現象に関与していることや、無機物からの自然発生でなく親や胞子から生まれることを示した。細菌という微生物が病気の原因であると考えたコッホの元で学ぶことを希望した日本人に、軍医本部長の石黒忠悳がいる。彼はミュンヘン大学にて医学者マックス・フォン・ペンテコーフェルの下で学んでいたが、北里と交代する形でコッホの下で学ぶことを希望した。ペンテーコーフェルは、ミアマス病因説を主張していた。19世紀半ばまで有力視されていたこの説は、病気の原因は不衛生な環境の害毒(ミアマス)によるとするもので、コッホの黴菌病因説と根本的に異なる説であった。その故もあり、北里はミュンヘン行きに対し反発していた。この北里と石黒を仲裁したのが、石黒に同行していた森鴎外こと森林太郎であった。森のはからいにより、北里はベルリンに滞在し続けることとなった。

 科学の営みにおいて、新たな発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認を受けたり退けられたりする。このような科学研究の進め方は古代ギリシアからはじまり、ダーウィンやレントゲンへと流れていき、西洋科学の精神的大気を醸成した。しかしながらなぜ、西洋で生まれたこの科学的大気は東洋で生まれ育まれなかったのか。このことを友人から問われた物理学者アルバート・アインシュタインは、東洋に科学的大気がないのはおどろくべきことでなく、西洋に科学的大気があることこそおどろくべきことであると語った。このアインシュタインの言葉を引用して、科学史家のチャールズ・ギリスピーは、オリエント文明は技術や魔術以上の事物一般へまで好奇心が及ばなかったのだと言及した。ギリシア人による神話から知識への転移が、哲学だけでなく科学の起源であったのだ。