橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第4章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 

【第4章 中国の科学】

 

 中国科学史家のジョセフ・ニーダムは、著書『文明の滴定』の中で、ヨーロッパ文明と中国文明における科学技術のあり方を比較考量し、両文明の科学技術の特質を見極めようとした。また、アインシュタインやギリスピーの東洋文明の捉え方を、狭い見方であると批判した。ニーダムは、中国には科学の名に値する、西洋とは異なる様式の知的体系が形成されていると主張した。中国科学の特徴は天文学によく表れており、大きな天文台を設け、正確な天文観測に基づく暦を作り上げた。一方で、宇宙の構造についての議論は初歩的な段階に止まっていた。

 

 中国において暦は重要な法典としてみなされ、暦の決定・製作・頒布は国家事業として推進され、天文学研究はそのためにあった。皇帝の入れ替わりや革命があった際には、制度や法律の変革とともに暦法も改革され、属国にもその施行を強要した。中国の暦は日本の旧暦同様、太陰太陽暦である。すなわち、季節を一巡する一年と月の満ち欠けに対応する一ヶ月とを組み合わせたものであった。一年の長さは十二ヶ月であり、十三ヶ月目の閏月を設ける「置潤法」が紀元前5〜6世紀に確立すると、十九年に七回閏月を挿入する「章法」が編み出され、5世紀には「破章法」とよばれるより緻密なものに改良された。また前漢代からは、日食と月食、「五星」という惑星の運行が暦の中に記入された。一年一ヶ月の長さの規定は農業など日常生活と結びつき、日食や惑星の運行は占星術と結びついた。この占星術は、代々皇帝にとって国家の行く末を占う重要行事であると考えられた。中国古来の書のうちの一つである『易経』の中で天文現象は、地上の人間社会のあり方や行く末を反映するものであり、天体観測によって人間社会の予兆を伺うことができると説かれている。この占星術は、特に乱世春秋戦国時代に重要視され、理論的体系として形成された。占星術は英語で個人の運勢を占うホロスコープと社会全体の運勢を占うアストロロジーがあるが、中国における占星術は後者であった。よってその情報は国家機密として取り扱われた。その天体観測のために「太史局」とよばれる国立天文台が周の時代には設けられていた。また、継続的な天体観測を行うための組織的な基本制度は、漢代に確立された。一方西洋では、このような大規模かつ系統的な天文観測事業は、中世においてもなされなかった。

 

 太史局は官僚機構の一部となっていた。太史局の長官、太史令は科挙を通った高級官吏や『史記』で有名な司馬遷が務めることもあった。長官太史令・副長官太史氶のもと、三部門が組織された。すなわちそれぞれ、暦法の研究と毎年の暦の作成、天文観測と占星、時間測定と報時を司った。暦を作成する者に司暦、天体観測をする者に監候という役職が付与された。また太史局には教育機関も備わっており、造暦を教授する暦博士と暦生、天体観測の天文博士と天文生、時刻測定の漏刻博士と漏刻生という、教官と学生から構成されていた。また、中国の星座や星の名前には、西洋のように神話的彩色は施されず、宮殿の場所や官僚の役職名が割り振られた。このような天文学的情報は国家機密であったために、天文台の職員は部外者との交流を禁じられ、一般人が天文観測器具や天文学書を所有することも禁じられた。このように、中国の天文学研究は、官僚機構の枠組みの中で閉鎖的に進められた。

 

 中国において宇宙の構造を探求が熱心にされなかったのは、天文学が官僚の任務として営まれ、宇宙構造の探求がその枠内に含まれていなかったためである。古代中国には、二つの代表的な宇宙論が存在していた。それは、平面の大地の上に天蓋が傘のように覆っているという「蓋天説」と、球状の天空の中央に水に浮かぶ大地があるという「渾天説」であった。渾天という名は、漢の武帝の時代に新暦が作られた際に用いられた天体観測器械「渾天儀」に由来する。渾天説において雨は、天球の外から降ってくるものであり、太陽は夜間に天球の内側の水中を通り抜けると考えらえていた。6世紀に武帝が学者を集めて両説の優劣を討論させた際、渾天説が有利であったにも関わらず、皇帝自身の采配で最終的に蓋天説が有利であるとされた。この出来事以降、宇宙論に関する論争は無益不毛なものとみなされ、天文学における宇宙構造の探求は学者らの職分でないとされた。この考えを批判し、宇宙の構造を探求し、それに基づいて暦の決定版を作成することを指し示したのが、南宋の思想家朱熹であった。彼の思想体系「朱子学」は、政治や倫理、自然、宇宙に関して考察している。その根底には、陰と陽が周期的に繰り返し、火・水・土・木・金の五元素が生成変化するという中国古来の伝統的な自然観「陰陽五行説」があった。朱熹宇宙論は、アリストテレス宇宙論のように地球の周りに天球をもつものであった。アリストテレスと異なるのは、天を構成するのは「気」という物質であり、それが高速回転して九つの層を形成していると説いた点である。またこの「気」は、希薄になったり濃密になったりし、気が火になることで太陽や星が形成され、火から水や土が形成されることで地球が生まれ、土は木や金に変成することで地上の物質が生まれるとした。

 

 朱熹は、暦の作成は緻密な天体観測に基礎付けられるべきであると主張し、天文観測器具に関心を寄せた。暦法を基礎付けるのは、今日でいうところのパターンを意味する自然の「理」であるとし、天体の位置を表し占星術的意味を付与されていた「数」ではないとした。また、天文台での観測結果が、暦法に合わせて操作され記録されるという悪習が横行しており、より精密な観測が必要とされた。時代が元へ移ると、勅命の元に改暦のための委員会が設けられた。その委員に朱熹の弟子の一人である郭守敬がいた。郭守敬は数学に秀でており、都水監という治水事業を管轄する官僚であった。彼は天文学器具を新しく製作することを主張し、渾天儀など新しい器具の設計と製作、太陽の高度を測定するために垂直にたてられ10mに及ぶ高さを有する「ノーモン」の建設計画を行った。これらの利用のために、新しい天文大「太史院」が建設された。ノーモンによって一年の起点である冬至が正確に決定され、これをもとに新しい暦「授時暦」がつくられた。この際、新しい数学的技法を用いることで太陽と月の不均一な運動が補間され、完成された暦法となった。このように暦法は、近代以前の中国科学の最高の成果であった。一方、宇宙論の探求は副次的作業に止まり、朱熹宇宙論が暦と結びつけられることはなかった。一方、西洋においては、ギリシアで宇宙像の探求が進み、その知識が共有され、近代科学への流れを形成していた。

 

 中国で世界三大発明とされる製紙術・火薬・羅針盤が発明されるなど、中国は様々な分野において技術が高度に発達した。造船技術も発達し海洋船が建造され、元代には外国貿易が奨励されたために海上交通が非常に発達した。しかしながら明代に入ると、海洋航海が禁止されることとなる。その理由としてあげられるのは、イスラム教徒宦官鄭和を司令官とした大船団がアラビア半島やアフリカ東岸への大航海を行っていたが、その鄭和をめぐる派閥争いがあったことや、国内の運河網が発達したため海上輸送の必要がなかったこと、海軍に力を入れる必要がなかったことがなどあげられるが、定かではない。

 

 ニーダムの分析によると、ヨーロッパ科学は古代ギリシアの興隆しその後の低迷するが、中国科学は古代・中世を通じて持続的に成長し続けた。1600年頃になると、中国が遠洋航海を禁止したのと対照的にヨーロッパは大航海時代を迎え、ヨーロッパ科学が中国科学の水準に追いつき、急激に成長していくこととなる。