ローレンス・M・プリンチーペ著 ヒロ・ヒライ訳『錬金術の秘密』第2章

 

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)

 

 【第二章 成長ーアラビアの「アル・キミア」】

 
1・750年から1400年頃、錬金術はアラビア世界で新しい理論や概念、実践的な技術、物質の知識などのあらゆる点で大きく発展する。アラビアの学問は、科学全体の歴史において重要であるにもかかわらず、現存する知識に限りがあった。そのため、化学者でありギリシア錬金術文書を出版したマルセラン・ベルテロをはじめとする人々によって、アラビア錬金術の原典が再発見され、研究された。それ以降、多くの謎が解明されたと言えるが、依然多くの課題が残っている。しかし、アラビア語に精通した科学史家は少なく、その中で錬金術に関心を持つ者の数となるとさらに少ない。一握りのテクストしか解明されていないなか、政治的・経済的事情も相まって、研究がなかなか進んでいないのが現状だ。
 
2・640年にエジプトがイスラム帝国に併合されると、イスラム世界は古代ギリシアの思想や文化、学問に触れることとなる。762年に首都がバグダートに移ると、そこは大翻訳運動の中心地となった。アリストテレスをはじめとするギリシアの書物がアラビア語へ翻訳される中、ケメイアについての著作も翻訳されていった。その翻訳運動によってギリシア錬金術がアラビア世界に伝播したかどうかという点については、未だに解明されていない。ゾシモスやアリストテレスなど、著名なギリシア人の名前の元に多くの著作が執筆されていたことは確実だ。しかし、これらの著作が最初からアラビア語で執筆されていたのか、消失したギリシア語による偽作の翻訳なのか、あるいはそれらが混合したものなのかは判断できない。
 
3・初期のアラビア世界の偽作群は、錬金術の歴史の中で最も尊ばれるテクスト『エメラルド版』を生みだす。ギリシアとエジプトの神話と英雄のイメージが複雑に重層化された神、ヘルメスに帰される書物群は、「ヘルメス文献」と呼ばれている。それは新プラトン主義的色彩を持つ哲学的で神学的な文書が核となっており、ギリシア・エジプト世界を起源とする多様なテクストの集合体となっている。その集合体には紀元前1世紀に書かれたものも含まれているが、主に紀元後1世紀から4世紀に成立したと言える。そこには占星術や技術、魔術のテクストが含まれているが、錬金術と明確に関連したものではない。しかしすでにゾシモスはヘルメスを権威としてあげており、10世紀にはイスラム世界でヘルメスが錬金術創始者であると考えられていた。その後ヘルメスの名声と威信は増大し続け、17世紀のヨーロッパではニュートンを含む多くの人々によって『エメラルド版』の注解が無数に執筆された。しかし、『エメラルド版』の起源とその意味については、謎につつまれたままである。
 
4・アラビア世界において、ギリシア・エジプト世界におけるゾシモスと同じくらい重要な役割をはたす人物が、ジャービル・イブン・ハイヤーンである。この人物は幾人かをさすとも考えられているし、実在しないとも考えられており、このことに関する論争は現在も続いている。このような外見と真実との乖離に、錬金術史の研究者たちはしばしば直面する。20世紀初頭、科学史家ポール・クラウスによって、ジャービルに帰されている書物が複数の著作家によるものであるという決定的な研究が発表された。したがって、本書ではジャービルは複数の著作家の集団をさす。
 
5・ジャービルの著作には、理論的な枠組みとともに、作業の工程や材料、器具についての実践的な知見などが記されている。中でも、「水銀・硫黄」の理論は、最初に提唱されてからほぼ1000年後である18世紀においても、ほとんどの化学者に受容された。これはバリーヌースの理論を典拠としている。バリーヌースは、全ての金属はアリストテレスが唱えた湿った蒸散気に似た「水銀」と煙状の蒸散気に似た「硫黄」の二原質からなっていると考えた。これらの二原質が地下で凝集されると、異なる割合と純度で結びついて様々な金属を形成する。正確な比率で完璧に結合すると金が生まれ、不純物が含んでいたり間違った比率で結合すると卑金属ができる。そのことから、卑金属の中の水銀と硫黄を純化し、比率を調整することで、金が生じると考えられた。ここで強調されるべき点は二つある。一つは、18世紀まで金属は7種類しか知られておらず、金と銀は貴金属とされ、銅や鉄、スズ、鉛、水銀は卑金属と見なされていた点。もう一つは、金属の原質としての水銀と硫黄は、これらの名前で呼ばれている化学物質と同一ではなく、似た特徴を持つ二種類の蒸散気に割り当てられた名前であるという点である。
 
6・構成要素の比率を変化させ金属編成をするこの操作を実践する際、ジャービル古代ギリシアの自然哲学由来の二つの概念を基礎においた。一つは、アリストテレスの四性質と四元素である。全ての事物の性質を温・冷・湿・乾の四性質とし、これらのうちどれか二つが組み合わさることで火・水・空気・土という四元素が生じるとと考えた。アリストテレスはこれらの概念を抽象的な原理とするが、ジャービルはこれらの元素を具体的な物質とみなす。ジャービルは物質を蒸留し分解することで、純粋で単一の性質を持つ4つの物質に分離できると考えた。ジャービルの金属編成の理論の基礎となるもう一つの重要な概念が、「エリクシル」と呼ばれる変成剤である。このエリクシルと単一に分離された物質とを適切に混ぜ合わせることで、卑金属の持つ比率を金の持つ比率に補正し、金属変成ができるとした。ジャービルのこの論は、すべての物質にふくまれている四性質の結合によって金が生まれるという点において、斬新かつ独創的といえる。ギリシア・エジプト世界の錬金術師たちは、変成剤を作るための物質を発見することに力を尽くしており、その物質は鉱物界にあると考えていた。ジャービルの理論では、四性質が純粋であるほどエリクシルは強力となる。したがって、くり返し蒸留することで、高純度な四性質の結合から「至高なるエリクシル」が獲得できる。それは賢者の石そのものであり、どんな金属でもその比率を調整して卑金属を金へと治療することができる。では、どのように金属に含まれた四性質の比率を確認するのか。ジャービルは、ピュタゴラス派の数秘術を採用した。28マスの縦と横に四性質と物質の比率を示す七等級を配置し、マスの中をアラビア語のアルファベットでうめ、物質名が該当する四性質と等級をマスから割り出すことで計算した。ジャービルのこの方法を、現代の認識で科学的なものではなく恣意的なものとみなすべきではない。前近代の人々にとって、数字は単なる数量を超越した意味と重要性を持っており、文字もまた人間の交流以上のものを表現していた。ピュタゴラス派のモットーである「世界は数字である」という考えが現在でも影響力があり、様々な定理が数字で表されることから、ジャービルの行った数学的に自然の事物を分類して定量化し可視化することは、現代人の手法と非常に似ているといえる。このジャービルの体系は、後代の錬金術師たちに継承されなかった。この体系が過度に難しく、アラビア語圏外に適応できなかったためと推測される。しかし、「水銀・硫黄」の理論は幅広く受容された。
 
7・ジャービルの文書の特徴は、後代の錬金術書に大きな影響を与えた。その一つとして、「真理の分散」がある。知識を一箇所にまとめるのではなく、複数の場所に断片的に記すことで、秘密を保護する手法だ。この手法が広範に受容されたことで、17世紀にボイルをはじめとする錬金術書の解読を試みる者は、困惑と苛立ちを覚えることとなった。
 
8・900年ごろに出現した古典的錬金術書『賢者たちの討論会』は、匿名のアラビア人によって書かれた書物である。その著作は、ソクラテス以前のギリシア哲学者9名が議論する形をとっている。議論は大筋で、イスラム教の神が世界の創造主であること、世界が唯一の一元論的本質を共有すること、すべての被造物が四元素からなることを示そうとしたものである。後代の錬金術師たちは、この著作の物質についての議論を高く評価した。その物質が錬金術の中心的主題であることがその理由である。イスラム世界で最も有名な医学者で錬金術師であるアル・ラージーは、1600年代までヨーロッパで権威として君臨し続けた。アル・ラージーは、ジャービルの「水銀・硫黄」の理論を受容した。彼は著作『秘中の秘の書』において、エリクシルによって石類や水晶、ガラスまでを宝石へ変化させることを錬金術の新たな目標としてくわえた。一方でこの著作の大部分は、金属変成に触れていない。錬金術を造金だけに狭めてしまうのは17世紀末以降にみられるもので、それ以前は現代人が化学と考えるすべての操作と概念をさし示すものが錬金術であった。したがって、アル・ラージーの試みは造金に関係していないが、錬金術の中心的部分を占めているといえる。
 
9・アラビア世界で錬金術が拡大すると同時に、それに対する批判や懐疑、否定といった反応が生まれる。特に、著作『医学典範』がヨーロッパにて17世紀まで基本的な権威となり続けたイブン・シーナーの批判は、大きな影響を与えた。ラテン語化された名前「アヴィセンナ」でも知られる彼は、特に金属変成を批判し、錬金術によって生成された金は金のように見え、一見金の特質を持ち、幾人かに金だと信じさせることができるが、それは本物の金ではないと主張した。なぜなら、人間の能力は自然の力よりも弱いものであり、その無知な人間が作成した事物はいかなるものであっても神が想像した自然の事物と同一ではないと考えたためである。その後、錬金術への批判は消えることなく何世紀にもわたって肯定派と否定派が論争をくりひろげることとなった。また、錬金術師が金に似たものを作成し人々を騙すという彼の見解は、意図的な詐欺と金属変成を結びつける別の種類の批判を生んだ。ペテンをする錬金術師の逸話が残っているが、実際にどこまで真実でどこまで架空かは判別できない。アル・ラージーやイブン・シーナーの後も、錬金術はアラビア世界で繁栄する。歴史家のホームヤードは、1950年代にモロッコの町、フェスの郊外の地下工房が操業しているのを目撃した。そして現在でも、ヨーロッパや北アフリカ錬金術の営みは存在し続けており、エジプトやイランでイスラム教徒の錬金術師に出会ったと歴史家の間で情報が交わされている。

ローレンス・M・プリンチーペ著 ヒロ・ヒライ訳『錬金術の秘密』第1章

 

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)

 

 【第1章 起源ーギリシア・エジプトの「ケメイア」】

 

1・錬金術の起源は紀元後1世紀のエジプトにある。当時エジプトは国際的なギリシア語文化圏だった。錬金術に必要な技術の多くは、錬金術の誕生より以前から存在し、発達していた。冶金術や金細工、人工的に宝石を作り出す技術や化粧品に関する技術等があげられ、それらに関連する商業圏も形成されていた。
 
2・錬金術における最初の文献であり、ギリシア・エジプト世界で生き残った現存する唯一の文献でもあるパピルス文書は、このような技術的・商業的背景に由来する。パピルス文書には、これらの技術を工房で実践する際の処方(レシピ)が記されており、特徴としては対象を真似することに焦点があわせられていることがあげられる。また、こうした処方の利用者たちは、正真品と偽造品の違いを明確に理解していた。著者によれば、その処方の中には現代でも再現可能なものが含まれているようだ。こうした処方は錬金術の誕生に必要な条件となるが、厳密に言えばこれら自体を錬金術ということはできない。科学の営みがそうであるように、知的な枠組を提供し、実践を補強・説明して新しい知見の獲得のための道筋を手引きする理論的な体系がなくてはならない。
 
3・錬金術師たちが職人とは区別して自身らのアイデンティを確立したのは、紀元後3世紀のことだった。本物の金を作るというアイデアが生まれ、技術や手順、道具を職人たちと同じくしながらも、金属変成を目的とする自分たちと職人たちを区別した。錬金術という独立した知の領域の誕生には、古代ギリシア哲学の思索もまた、必要な営みであった。アリストテレスらによって論じられた、物質とはなにか、ひとつの物質はどのようにして他の物質に変化するのかという問題に関するギリシア哲学の伝統もまた、金属に関する技術の歴史と同じく錬金術の誕生よりずっと以前からの営みであった。
 
4・後代においても錬金術の基本であり続ける重要な概念を提示した人物に、パノポリスのゾシモスがいる。紀元後300年頃に活躍した彼の著作からは、問題を洞察し、実践を理論的に導き、問題の解決法を探求する営みが見出せる。これは彼以前の著作と大きく異なるもので、ここにゾシモスの革新性と重要性が示されている。また、彼の観察したものは、現代の化学においても基本的な原理と理解されている。彼はまた、暗号名や寓意的な記述を用いることで、錬金術に偏在する秘密主義を明確なものとした。この知の営みを紐解こうとする際、現代人的観点からのみ分析しようとしてはいけない。現代科学においては、哲学的・神学的思考を分断して科学的思考を行われる傾向がある。しかし、当時の人々がその時代の世界観から影響を受け依拠していることを分断することは、真実を理解することにつながらない。
 
5・ゾシモス以降、8世紀までに現存しているテクストは、ギリシア語で書かれた彼の初期の著作の注解がほとんどである。そしてここでの重要な展開は、理論的・哲学的なものと実践的なものが融合した点である。ゾシモスに「硫黄の水」や「石でない石」と呼ばれた、金属の編成をもたらす特別な物質は、7世紀以降「賢者の石」と呼ばれるようになる。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第4章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 

【第4章 中国の科学】

 

 中国科学史家のジョセフ・ニーダムは、著書『文明の滴定』の中で、ヨーロッパ文明と中国文明における科学技術のあり方を比較考量し、両文明の科学技術の特質を見極めようとした。また、アインシュタインやギリスピーの東洋文明の捉え方を、狭い見方であると批判した。ニーダムは、中国には科学の名に値する、西洋とは異なる様式の知的体系が形成されていると主張した。中国科学の特徴は天文学によく表れており、大きな天文台を設け、正確な天文観測に基づく暦を作り上げた。一方で、宇宙の構造についての議論は初歩的な段階に止まっていた。

 

 中国において暦は重要な法典としてみなされ、暦の決定・製作・頒布は国家事業として推進され、天文学研究はそのためにあった。皇帝の入れ替わりや革命があった際には、制度や法律の変革とともに暦法も改革され、属国にもその施行を強要した。中国の暦は日本の旧暦同様、太陰太陽暦である。すなわち、季節を一巡する一年と月の満ち欠けに対応する一ヶ月とを組み合わせたものであった。一年の長さは十二ヶ月であり、十三ヶ月目の閏月を設ける「置潤法」が紀元前5〜6世紀に確立すると、十九年に七回閏月を挿入する「章法」が編み出され、5世紀には「破章法」とよばれるより緻密なものに改良された。また前漢代からは、日食と月食、「五星」という惑星の運行が暦の中に記入された。一年一ヶ月の長さの規定は農業など日常生活と結びつき、日食や惑星の運行は占星術と結びついた。この占星術は、代々皇帝にとって国家の行く末を占う重要行事であると考えられた。中国古来の書のうちの一つである『易経』の中で天文現象は、地上の人間社会のあり方や行く末を反映するものであり、天体観測によって人間社会の予兆を伺うことができると説かれている。この占星術は、特に乱世春秋戦国時代に重要視され、理論的体系として形成された。占星術は英語で個人の運勢を占うホロスコープと社会全体の運勢を占うアストロロジーがあるが、中国における占星術は後者であった。よってその情報は国家機密として取り扱われた。その天体観測のために「太史局」とよばれる国立天文台が周の時代には設けられていた。また、継続的な天体観測を行うための組織的な基本制度は、漢代に確立された。一方西洋では、このような大規模かつ系統的な天文観測事業は、中世においてもなされなかった。

 

 太史局は官僚機構の一部となっていた。太史局の長官、太史令は科挙を通った高級官吏や『史記』で有名な司馬遷が務めることもあった。長官太史令・副長官太史氶のもと、三部門が組織された。すなわちそれぞれ、暦法の研究と毎年の暦の作成、天文観測と占星、時間測定と報時を司った。暦を作成する者に司暦、天体観測をする者に監候という役職が付与された。また太史局には教育機関も備わっており、造暦を教授する暦博士と暦生、天体観測の天文博士と天文生、時刻測定の漏刻博士と漏刻生という、教官と学生から構成されていた。また、中国の星座や星の名前には、西洋のように神話的彩色は施されず、宮殿の場所や官僚の役職名が割り振られた。このような天文学的情報は国家機密であったために、天文台の職員は部外者との交流を禁じられ、一般人が天文観測器具や天文学書を所有することも禁じられた。このように、中国の天文学研究は、官僚機構の枠組みの中で閉鎖的に進められた。

 

 中国において宇宙の構造を探求が熱心にされなかったのは、天文学が官僚の任務として営まれ、宇宙構造の探求がその枠内に含まれていなかったためである。古代中国には、二つの代表的な宇宙論が存在していた。それは、平面の大地の上に天蓋が傘のように覆っているという「蓋天説」と、球状の天空の中央に水に浮かぶ大地があるという「渾天説」であった。渾天という名は、漢の武帝の時代に新暦が作られた際に用いられた天体観測器械「渾天儀」に由来する。渾天説において雨は、天球の外から降ってくるものであり、太陽は夜間に天球の内側の水中を通り抜けると考えらえていた。6世紀に武帝が学者を集めて両説の優劣を討論させた際、渾天説が有利であったにも関わらず、皇帝自身の采配で最終的に蓋天説が有利であるとされた。この出来事以降、宇宙論に関する論争は無益不毛なものとみなされ、天文学における宇宙構造の探求は学者らの職分でないとされた。この考えを批判し、宇宙の構造を探求し、それに基づいて暦の決定版を作成することを指し示したのが、南宋の思想家朱熹であった。彼の思想体系「朱子学」は、政治や倫理、自然、宇宙に関して考察している。その根底には、陰と陽が周期的に繰り返し、火・水・土・木・金の五元素が生成変化するという中国古来の伝統的な自然観「陰陽五行説」があった。朱熹宇宙論は、アリストテレス宇宙論のように地球の周りに天球をもつものであった。アリストテレスと異なるのは、天を構成するのは「気」という物質であり、それが高速回転して九つの層を形成していると説いた点である。またこの「気」は、希薄になったり濃密になったりし、気が火になることで太陽や星が形成され、火から水や土が形成されることで地球が生まれ、土は木や金に変成することで地上の物質が生まれるとした。

 

 朱熹は、暦の作成は緻密な天体観測に基礎付けられるべきであると主張し、天文観測器具に関心を寄せた。暦法を基礎付けるのは、今日でいうところのパターンを意味する自然の「理」であるとし、天体の位置を表し占星術的意味を付与されていた「数」ではないとした。また、天文台での観測結果が、暦法に合わせて操作され記録されるという悪習が横行しており、より精密な観測が必要とされた。時代が元へ移ると、勅命の元に改暦のための委員会が設けられた。その委員に朱熹の弟子の一人である郭守敬がいた。郭守敬は数学に秀でており、都水監という治水事業を管轄する官僚であった。彼は天文学器具を新しく製作することを主張し、渾天儀など新しい器具の設計と製作、太陽の高度を測定するために垂直にたてられ10mに及ぶ高さを有する「ノーモン」の建設計画を行った。これらの利用のために、新しい天文大「太史院」が建設された。ノーモンによって一年の起点である冬至が正確に決定され、これをもとに新しい暦「授時暦」がつくられた。この際、新しい数学的技法を用いることで太陽と月の不均一な運動が補間され、完成された暦法となった。このように暦法は、近代以前の中国科学の最高の成果であった。一方、宇宙論の探求は副次的作業に止まり、朱熹宇宙論が暦と結びつけられることはなかった。一方、西洋においては、ギリシアで宇宙像の探求が進み、その知識が共有され、近代科学への流れを形成していた。

 

 中国で世界三大発明とされる製紙術・火薬・羅針盤が発明されるなど、中国は様々な分野において技術が高度に発達した。造船技術も発達し海洋船が建造され、元代には外国貿易が奨励されたために海上交通が非常に発達した。しかしながら明代に入ると、海洋航海が禁止されることとなる。その理由としてあげられるのは、イスラム教徒宦官鄭和を司令官とした大船団がアラビア半島やアフリカ東岸への大航海を行っていたが、その鄭和をめぐる派閥争いがあったことや、国内の運河網が発達したため海上輸送の必要がなかったこと、海軍に力を入れる必要がなかったことがなどあげられるが、定かではない。

 

 ニーダムの分析によると、ヨーロッパ科学は古代ギリシアの興隆しその後の低迷するが、中国科学は古代・中世を通じて持続的に成長し続けた。1600年頃になると、中国が遠洋航海を禁止したのと対照的にヨーロッパは大航海時代を迎え、ヨーロッパ科学が中国科学の水準に追いつき、急激に成長していくこととなる。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第3章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 



【第3章 中世の科学】

 

 古代ギリシアの科学は、アレクサンドロス大王の元、エジプトの都市アレクサンドリアにおいてさらなる発展を遂げた。図書館兼研究所であり、ミュージアムの語源にもなった「ムセイオン」が設立され、ユークリッドの数学書『原論』やプトレマイオスの天文書『アルマゲスト』など、各地の書物が収集され、研究の場を提供することとなった。ローマが地中海を支配した後は、自然科学は一時停滞することとなる。その理由は、ローマ人が実用的な技術や医術を重視したためであった。ローマの没落後、哲学・科学研究の中心は、コンスタンティノープルやシリア、アラビアなど東へ移ることとなる。

 

 今日使われている科学用語には、アラビア語を起源とするものが残されている。数学者アル・フワーリズミーは、数学計算のステップをさす「アルゴリズム」の語源となった。また、彼が著した代数学の書『アル・ジャーブルとアル・ムカーブルの書』の「アル・ジャーブル」は代数学をさす「アルジェブラ」の語源となった。代数的計算法は、コーランに親族への遺産分配の仕方が規定されているため、重視されていた。アラビアの科学は、9世紀におけるシリア・ギリシア文献の翻訳運動から始まった。カリフ、アル・マアムーンによってバクダッドに研究所「知恵の館」が設立され、文献学者フナイン・イブン・イスハークによる大規模翻訳活動が展開された。数学や天文学、医学、哲学各領域で独創的な研究が展開された。また、アリストテレスユークリッドプトレマイオスらの学問成果が継承され、部分的に批判・修正された。

 

 12世紀になると、アラビアで継承発展されたギリシアの学問は、ラテン世界へ輸入される。ヨーロッパの諸都市が活気づくことを背景に、学問の教育と研究を行うことを目的といた「大学」が設立されることとなった。大学において、アラビア語学術文献がラテン語訳された文献(写本)がテキストとされた。イタリアで生まれたジェラルドはスペインへ赴き、70冊にもおよぶラテン語訳を成した。この中にはアリストテレスユークリッドプトレマイオスなど、ギリシア科学の基本文献が含まれていた。大学を構成するのは、神学・法学・医学の専門学部と、そのための基礎教養を担う学芸学部であった。哲学部とも呼ばれる学芸学部においては、自由学芸七科とよばれる基礎科目が学習された。その内容は、文法・修辞学・論理学の三科目と、算術・幾何学・音響学・天文学の四科目であった。論理学においては三段論法と議論の作法が教えられ、中世の大学で重視される科目であった。

 

 アリストテレスの哲学体系が大学で研究され知られるようになると、アリストテレス哲学とキリスト教の教えの間にある食い違いが認識されるようになった。このことついて、学芸学部の哲学者たちと神学部の神学者たちで異なる見解をもち対立するようになり、13世紀を通してパリ大学で激化することとなった。1210年にパリ大学にてアリストテレスの著作が読解禁止になり、1255年になるとその禁止令が解除された。しかしながら哲学部と神学部の対立は深刻化し、1270年に13の命題がキリスト教に反する誤ったものとして選定された。1277年には教皇ヨハネ21世に命令されたパリ司祭エチェンヌ・タンピエによって「タンピエの譴責(けんせき)」とよばれる219の命題が選定され、これら誤った命題を主張したらキリスト教から破門されることとなった。選定された、すなわち否定されたアリストテレス哲学の命題は、次のようなものであった。すなわち、神学的真理の他に哲学的真理が認められことはないとして否定された「真理の二重性」、神の創造によって始まり神による最後の審判があるため否定された「世界の永続性」、神は絶対的な力をもっているため最外天球の外にも世界を創造できるために否定された「世界の単一性」、全能の神は真空も生み出せるとして否定された「神は天体を直進運動させられない」というものなどであった。

 

 タンピエの譴責は知的活動を制限するものであると同時に、アリストテレス哲学を超えるきっかけをあたえるものであった。14世紀中葉、パリ大学学芸学部の教授であったジャン・ビュリダンは、キリスト教すなわちタンピエの譴責からはみ出ずにアリストテレス哲学を精緻化し、自然学の理論を組み立てた。彼が著した『自然学問題集』はアリストテレス哲学の授業の講義ノートであり、彼の主張が記されている。すなわち、神は真空をつくることができ、天体を直進運動させることができるが、真空は神学の領域であり哲学者としての自分の領分を超えた問題であるとした。また、投射体の運動についてアリストテレスの考えに反論している。投げることで手から離れた石は自然運動をしているのか強制運動をしているのかという問題に対し、アリストテレスは、物体が動くことにより前方の空気が後方に回り込み物体を後ろから押している、つまり強制運動をしているのだとした。このような駆動方式を、アリストテレスは「アンチペリスタシス」とよんだ。これに対しビュリダンは反論として、回転する石は空気に押されているわけではないことや、先端も末端も尖った槍がよく飛ぶその場合空気はどうやって押すのかという点を指摘した。この回答としてビュリダンは、石には投げる動作によって、物体を動かす本性をもつ性質である「インペトゥス」がこめられ、これが駆動力の源になっていると主張した。これは、近代力学の「慣性」に近い発想であった。

 

 このように中世における自然学の研究は、キリスト教神学という枠内で進められながらも、アリストテレス哲学を超越した可能性について考察する豊かさをもっていた。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第2章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 

【第2章 ギリシアにおける自然学の誕生】

 古代ギリシアの人々は、自然現象について神話的説明をしていた。ホメロス叙事詩においては、万物はオケアノスとラテュスという神がつくったとされていた。これに対して、論理的考察によって自然界にその要因を求めた人物が、タレスである。彼の後継者の一人であるアナクシマンドロスは、動物の祖先は究極的には物質であると説いた。ただし、人間は一人で生きることができるようになるまで時間がかかるため、物質からでなく動物から生まれたのだとした。この物質、すなわち万物の生命の源について、タレスは水であるとした。また、アナクシメネスは空気であるとし、ヘラクレイトスは日であり万物は流転すると説いた。

 ピタゴラスは万物の原理は数であるとし、天文や自然現象に比例関係を見いだそうとした。彼は数の原理が成り立つ例として、音律をあげる。弦の長さを比例関係を活用して調整することで、音階の高さを定めた。この音程の高さをきめる規則は、「ピタゴラスの音律」とよばれた。またピタゴラスの弟子によって、直角三角形の斜辺の長さの比、1:√2という無理数または不可共約的比例関係とよばれる数の存在が発見された。この不可共約的比例関係を表現するためには、自然数よりも線分や幾何図形の方が相応しいと考えられるようになっていた。そのピタゴラス以降の数学的知識の集大成が、ユークリッドの『原論』である。それは、少数の公理から定理が演繹的に導かれる体系であった。

 ギリシア自然哲学の発展に大きく寄与した人物に、パルメニデスがいる。彼は変化は不可能であると主張し、変化前後に同一性を認めず、生成・消滅・変化・運動を否定した。またパルメニデスは、彼の哲学の根本命題として、「パルメニデスの難問」とよばれる次のような命題を提示した。すなわち、「ものは〈ある〉か〈あらぬ〉かのどちらかである。〈ある〉ものはどこまでもあり、〈あらぬ〉ものは知ることも語ることもできない。」というものであった。この主張は同時代にとどまらずその後の哲学者たちへ深刻な影響を及ぼした。エンペドクレスはこの主張を受けて、変化しない四元素(火・空気・水・土)の組み合わせによって自然界の多様な存在が生み出されると主張した。パルメニデスの難問に対する回答を提示したのは、原子論者らであった。デモクリトスは、変化せず分割されない原子(アトム)の組み合わせや位置によって自然界の多様な存在が生み出されるとした。しかしながら、原子が移動し配置を変えるには、隙間が必要である。その隙間は、原子も物質も存在しない真空であるはずであった。このように〈ある〉が原子で〈あらぬ〉が真空であるとするならば、知ることも語ることもできないはずの〈あらぬ〉について矛盾が生じることとなる。この矛盾はその後のギリシア哲学者たちを悩ませた。

 パルメニデスの難問に対して、ギリシアを代表する哲学者であるソクラテスは、彼の弟子プラトンの書いた『パルメニデス』に登場し、次のように語っている。すなわち、ソクラテスプラトンによれば、我々の目に映る世界は幻影であり、その背後の「イデア」という不変で実在の世界があるという考えを示した。これを模範とした回答が、プラトンの弟子であるアリストテレスによって提示された。彼によれば、変化とは「可能態」から「現実態」へ移行することであった。可能態とは、未だ目に見える形では存在していないが、いつかその能力を発揮し目の前に現れる力が隠れて備わっているものである。アリストテレスは、ミレトス派の自然哲学者以来のすべての知識・学問を体系的に整理し秩序づけた。すなわち、神学や数学、自然学などの理論的知識と、政治学倫理学などの実践的知識に分けたのである。また、自然学において変化を研究し、幾何学において不変な存在を対象とし自然界を対象外とした。よって今日における数学の物理学への応用は、アリストテレスの哲学体系の中では認められないことだったのである。自然学のなかで説かれた「変化」は量・質・位置の三種類があった。位置は運動に相当し、その運動は自然運動と強制運動の二種類あるとした。自然運動とは自分の本性に従ってひとりでにおこるもので、物体の落下がそれに該当した。アリストテレスによれば、物体の落下は重力の仕業ではないのである。強制運動は外部の力により自分の本性に逆らっておこるものとされた。

 またアリストテレスは、デモクリトスにならって、すべての地上の物質は四元素によって構成されると考えた。四元素における火と空気は自然運動において上昇の本性をもち、水と土は地球の中心へ下がる本性をもつとした。生物には四元素に加えて霊魂が付与されると考えた。植物には司る植物的霊魂が、動物はそれにくわえて知覚と運動を司る動物的霊魂が、人間にはそれらにくわえて精神作用をつかさどる理性的霊魂が備えられているとした。ただし、天界の物体は第五元素またはエーテルとよばれる別の元素でつくられていると考えた。天を構成するのは球状の殻である「天球」だとし、その天球は全部で55あり、エーテル(第五元素)で構成されているとした。その本性は円環的運動であり、神による最初の一撃後は55の天球がそれぞれ回転運動をし続けていると考えた。アリストテレス宇宙論において宇宙の中心は地球であり、その内側から外側にかけて、月を運ぶ天球、太陽や惑星を運ぶ天球、無数の構成が埋め込まれた天球すなわち最外天球があるとされた。

 アリストテレスギリシア哲学のひとつの頂点を築いた。古代ギリシアの人々は、紀元前3世紀にはすでにこのような自然や宇宙の構造に関する合理的認識をもっていたのである。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第1章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 【第1章 西洋科学の精神】

《概要》

 西洋科学の営みにおいて、新発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認・非承認を受ける。一方東洋においてこの科学的大気は発生しなかった。その事例として、コッホによる日本の西洋医学についての批判があげられている。なぜ東洋科学は西洋科学の営みと異なるのか。それについてアルバート・アインシュタインは、古代ギリシアから時を経てこの科学的大気が西洋で醸成されてきたこと、それ自体が驚くべきものであると述べている。

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 西洋科学の精神は2000年かけてつくられたものであり、一生かけてそれを習得していくのだと主張したのは、ドイツの医学者エルヴィ・フォン・ベルツであった。彼はお雇い外国人として日本に長期滞在し、西洋医学教育を行った。日本は科学的理論の輸入はしたが、その精神は持込きれてないと指摘していた。彼の言う西洋科学的精神を学んだ人物として、1890年に破傷風の病原菌を発見した北里柴三郎があげられる。北里は東京医学校を経て内務省衛生局に勤務し、1888年にベルリンの帝国衛生院へ留学した。留学先で師事した細菌学の父ロベルト・コッホから、この西洋科学的精神を学んだことが垣間見れるエピソードがある。すなわち、北里の先輩であり指導者であった緒方正則が脚気の病原菌を発見したとき、北里はコッホに促されてその吟味に取り掛かったところ、その発見が誤りであることがわかった。その指摘を公表することにためらいをおぼえたものの、科学研究における論理は私情を超えたものであるとコッホに説かれ、公表したという。北里の師コッホは、黴菌病因説を唱えた人物であった。コッホは新しい病原菌が発見されるには、その病原菌が、①当該病気の体内に規則的に見出されること、②病状のないところには見出されないこと、③培養された数世代後の菌でも同じ病気が生じること、という「コッホの条件」とよばれた三つの条件を提示した。この研究の背景として、顕微鏡の性能が向上による微生物研究が発達がある。微生物研究の代表的な人物として、生物学者ルイ・パストゥールがいる。彼は、微生物が発酵現象に関与していることや、無機物からの自然発生でなく親や胞子から生まれることを示した。細菌という微生物が病気の原因であると考えたコッホの元で学ぶことを希望した日本人に、軍医本部長の石黒忠悳がいる。彼はミュンヘン大学にて医学者マックス・フォン・ペンテコーフェルの下で学んでいたが、北里と交代する形でコッホの下で学ぶことを希望した。ペンテーコーフェルは、ミアマス病因説を主張していた。19世紀半ばまで有力視されていたこの説は、病気の原因は不衛生な環境の害毒(ミアマス)によるとするもので、コッホの黴菌病因説と根本的に異なる説であった。その故もあり、北里はミュンヘン行きに対し反発していた。この北里と石黒を仲裁したのが、石黒に同行していた森鴎外こと森林太郎であった。森のはからいにより、北里はベルリンに滞在し続けることとなった。

 科学の営みにおいて、新たな発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認を受けたり退けられたりする。このような科学研究の進め方は古代ギリシアからはじまり、ダーウィンやレントゲンへと流れていき、西洋科学の精神的大気を醸成した。しかしながらなぜ、西洋で生まれたこの科学的大気は東洋で生まれ育まれなかったのか。このことを友人から問われた物理学者アルバート・アインシュタインは、東洋に科学的大気がないのはおどろくべきことでなく、西洋に科学的大気があることこそおどろくべきことであると語った。このアインシュタインの言葉を引用して、科学史家のチャールズ・ギリスピーは、オリエント文明は技術や魔術以上の事物一般へまで好奇心が及ばなかったのだと言及した。ギリシア人による神話から知識への転移が、哲学だけでなく科学の起源であったのだ。