BHセミナー「『科学革命』を読む」第5回レジメ

 

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

 Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p91-p

 

【第5章 ミクロコスモスと生き物の世界】
初期近代の思想家たちの注目を集めたのは、月の上の世界と月の下の世界だけではありませんでした。第三の世界は、人体というミクロコスモスです。
 人体の構造や機能、その健康の維持を探求し実践する医学は、初期近代の社会において、法学と神学に並んで重要視されていました。16世紀、その教えは、古代ギリシアヒポクラテス古代ローマのガレノスを核とし、中世アラビアのイブン・シーナー(もしくはアヴィセンナ)とラテン世界の知識が蓄積されたものでした。すなわち、「体液説」に沿っていたのです。体液説は、血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の4つの体液とその混合である「気質」のバランスを保つことで、人体の健康が維持されるという考えです。4つの体液は、アリストテレスの4元素に対応していると考えられていました。また、人体というミクロコスモスは、天界というマクロコスモスの影響を受けているとされました。したがって、惑星の位置を特定する占星術は、医学において重要な役割を担っていたのです。医者の役割は、患者各々の独自の体液比率、すなわち「体質」を占星術による出生天宮図から把握し、患者本来の体液バランスに回復させるよう援助することでした。その診断のために、惑星の位置を知るだけでなく、患者の尿を調べたり脈を計ったりしました。このような方法は、免許をもつ医者のあいだでは科学革命期後の18世紀まで、劇的に変化することはありませんでした。その一因として、医学校や医者のギルドが保守的であったことがあげられます。医療における革新は外部から、すなわち、当時大都市以外のほとんどの地域で医療を担っていた無免許の医者、「経験医」たちによって引き起こされます。経験医たちは、その治療が成功するか否かに報酬の有無がかかっていました。そのため、パラケルススやファン・ヘルモントなどの新しいキミア的医学のアプローチを積極的に採用していきます。この動きは、ゆっくりと正規の薬局や医療機関に取り入れられていきました。伝統的な医療と対立することとなったキミア的医療は、論争を繰り広げながらも着実に結果をもたらし、認められていきました。
 人体というミクロコスモスを探求する営みは、解剖学においても行われ、初期近代に大きな発展をとげました。人体の解剖は、古代より重要性が説かれていながら、当時の社会的・倫理的な問題により、実行することがほとんどできていませんでした。しかし後期中世にはいると、イタリアの医学校において一般的なこととなります。関心の高まる人体解剖学の知識を広く普及させた書物として、アンドレアス・ヴェザリウスの『人体の構造について』があります。多くの人体解剖を行ったヴェザリウスは、豊富な挿絵とともに人体の特徴や構造をきわめて詳しく説明しました。
 解剖は、人体に限れられていたわけではありませんでした。17世紀に入ると、パリ王立アカデミーでは、ダチョウやライオンなど様々な動物を解剖しました。ロンドン王立協会では、生きたままイヌの解剖を行っただけでなく、様々な液体をイヌの体内に注入し、その動きを観察しました。このような体液や血液の運動への関心は、ウィリアム・ハーヴィの血液循環についての議論に、部分的に由来します。ガレノスによる医学の伝統的な考え方では、動脈と静脈は分離しているものと考えられ、血液が心臓にもどることはないとされていました。ハーヴィは、解剖と観察の結果、血液は体内を大きく循環し、心臓がその中心的な役割を担っていると結論づけます。これは、アリストテレスが最も完全なものとみなしたマクロコスモスの天が行う円運動を、ミクロコスモスの人体がまねていると解釈できたため、ハーヴィは自分が導いた結論をより確信しました。ここに、科学革命期においてアリストテレスが重要であり続けた一例を見てとることができます。
 動脈と静脈をつなぐ毛細血管の存在は、マルチェロマルピーギによって発見されました。彼がこの発見のために用いた道具が、当時比較的新しい発明品であった顕微鏡です。顕微鏡は、望遠鏡と同様に新しい世界を明らかにしていきました。様々な人によって途方もなくい多くのものが顕微鏡で観察されただけでなく、顕微鏡自体の改良も進められていきました。その中で得た発見の一つに、服地商で測量技師のアントニー・ファン・レーウェンフークの精子の発見があります、これは、動植物の発生について、論争を引き起こすこととなりました。すなわち、前成説と後成説の対立についてです。前成説は、人がその形を成す経緯として、精子あるいは卵の中に子どもの小型版が含まれているという考えです。対して後成説では、胎児は母親が妊娠している最中に段階を追って形成されていくと考えられます。この後成説は、特に機械論哲学者に歓迎されました。顕微鏡は、生体に機械論的な構造が存在することを明らかにしました。そのため、17世紀後期の顕微鏡による実験は、ほとんど機械論者たちによって行われます。一方で、顕微鏡による精子の発見は、前成説に有利な解釈をもたらしただけでなく、生体の複雑な構成を明らかにしたため、後成説や生体についての機械論的な説明が不十分なようにも見えました。このように、顕微鏡による観察は、矛盾する解釈が可能だったのです。この対立する考え方が同時に繁栄する動きは、17世紀において非生物と生物の区別が明確でないことや、機械論的な体系と生体論的な体系が混在したことにおいても見てとれます。その背景としてあるのは、アリストテレスの霊魂の概念です。科学革命期当時の人々は、生体の機能や構造は機械論的に説明でき、生体の組織化や維持は霊魂によって行われるという思考的基盤を共有していたのです。
 17世紀に登場した最も包括的で新しい医学は、貴族で医師、キミストで自然哲学者である、ヤン・バプティスタ・ファン・ヘルモントによって体系づけられました。ファン・ヘルモントは、アリストテレス 的な四元素やパラケルスス的な三原質を否定し、水こそがすべての基本元素であると主張しました。そしてそれを、実験と観察によって確かめます。そのひとつにヤナギの苗木を使ったものがあります。5年間ヤナギの苗木に水を与え続けたもので、その結果、ヤナギの木の重さは増加しましたが、土の重さはほとんど減ることがありませんでした。そのことから、ファン・ヘルモントは、木の全体の構成は水だけからつくられたと結論づけたのです。水をあらゆる物質に変換するものは、「セミナ」(種子)であると彼は考えました。種子は、あらゆるものを組織化する非物質的なものと説明します。この種子は、火と腐敗によって破壊されて空気のような物質に変化します。彼はこれを、カオスという語に由来して「ガス」と呼びました。このガスが大気の寒冷な部分で水へと変換し、雨となって落下することで、自然界でも水があらゆるものに変化し循環するのだと説明します。水がすべての、ただひとつの元素であるとしたファン・ヘルモントは、身体は基本的に化学的に営まれていると考え、体液特に尿の分析を行います。化学的な営みが行われている身体で、その機能を調整し支配するものは、準霊魂的な実体である「アルケウス」によって行われると説明されました。よって医療とは、アルケウスを強化することであったのです。ファン・ヘルモントの説明では、病気になるのは体液の不均衡のせいではなく、病気の「種子」が体内に侵入し、身体を変質させるからなのでした。また、精神や情緒の状態が、体内の物理的変化を引き起こすと主張します。このようなヘルモント的な思想は、医者や生理学者、キミストに深く影響を与えます。医学にとって化学が重要であることを主張する者が現れ、医学教育が改革され、18世紀に起こる医学の重要な変化の基盤を構成することとなったのです。
 植物と動物の研究は、16・17世紀に著しく拡大しました。そのテクストは、百科事典の形をとっていました。動植物に関する百科事典の説明は、様々な種についての詳しい記述と、古代以来蓄積されてきた動植物にまつわるおびただしい量の文学的・語源的・聖書的・道徳的・神話的、そして比喩的な意味が混ぜ合わされたものでした。つまり、当時の動植物に関する説明は、文字通りであると同時に象徴的メッセージの含まれたものだったのです。よって、一角獣や竜など架空の動物についての記述は、当時の人々がその存在を信じていたためでなく、その意味するところに重要性があったのです。このような伝統的な記述方法は、転換期を迎えることとなります。科学革命期に発展した医学と航海術によって得た膨大な量の知識を古代からの知識と照らし合わせて編纂する際、古代から初期近代へ橋渡し、または新たなカテゴリーを創出する必要がでてきたのです。よって、寓意に満ちた伝統的な百科事典の説明は、写実的な説明へと転換することとなります。航海術の発展による新世界との出会いは、新薬の探索と新しい植物の研究を促しました。その結果、ヨーロッパ各所の医学校に付属の植物園が設立されます。めずらしい植物に対する関心は、医学校内にとどまらず個人にまで広がり、異国風なものや希少なものを収集して各々の陳列室へ収容しました。これは、博物館の先駆けであり、また、収集家たちの富や権力、関心を展示しているだけでなく、自然物と人工物への人々の関心を引き立たせました。陳列室に収容された事物の実際の配置には、事物同士の結びつきを見てとることができました。人間と自然の営みが連結され、圧縮されたこの空間は、まさにもう一つのミクロコスモスであったのです。