E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第3章 中国の錬金術

 

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

 

 

【第3章 中国の錬金術
 中国の錬金術は、西洋の錬金術と並行して営われていた。その発展の経路については、ジョンソン (Obed Simon Johnson)、デーヴィス (Tenney Lombard Davis)、ウー (Lu-Chiang Wu)、チェン(Chen Kou Fu 陳国符) の研究があり、とりわけダブス (Homer H. Dubs) の研究によって明らかになった。
 
 錬金術についての最も古い言及の一つに、紀元前144年に出された中国の皇帝の勅令がある。錬金術を法律で禁止しなければならなかった事実は、錬金術がそれ以前も営われていたことを示している。中国の資料によると、錬金術が最初に行われたのは、紀元前4世紀に活躍した名士の騶衍 (スウエン Tsou Yen) によるとされる。その後勅令によって錬金術が禁止されてからも、錬金術が止まることはなかった。勅令が出てからわずか11年後の紀元前133年に、ある錬金術師が武帝に迎えられることとなる。その錬金術師は、不老長寿の秘密を発見したと称していた。彼の言うところは、中国の錬金術における二つの特徴を示している。ひとつは、錬金術の主な目的が、不死あるいは長寿を確保するためであったことである。この時代の中国において商業は軽蔑されていたため、錬金術は寿命を延ばすという高貴な目的のために行われていた。もうひとつは、それを達成するためには、精霊あるいは二次的な神の助けが必要なことである。
 
 このような目的のもと、紀元前60年には劉向という若い学者が、漢の宣帝のために様々な実験を試みた。そのために、帝室の後援のもと莫大な金額がつぎこまれたが、結果は失敗に終わった。劉向は、紀元前144年の勅令に違反したとされて役人たちによって断罪され、死刑を宣告されたが、彼の能力を惜しんだ皇帝が働きかけたことで、刑は無効となった。このような大失敗が起きたにもかかわらず、錬金術の探求や錬金術への期待は、衰えることがなかった。その営みについて、様々な話が残っている。ダブスによって伝えられたものによると、錬金術を好んだ官人の程偉が錬金術における金づくりを試みる際、方士の家族から向かい入れた元召使の妻からの手助けをもって成功を収めたという話がある。妻はその秘訣を知っていたにもかかわらず最初から夫の金づくりを手伝わなかった理由として、夫に錬金術の実践をもって得られる金を手にいれる「天命」があるか見極めていたのだという。このことは、後世の錬金術師が想定した、ふさわしい占星術条件の存在を想起させる。また、妻が夫を手伝う際、ある薬品を添加したとされている。このことは、後に金の成功に不可欠となる賢者の石のはしりといえるだろう。また、『参同契(サンドウケイ)』の著者とされる、魏柏陽を名乗る人物に関する逸話も残っている。不老長寿を叶える錬金薬(エリクシール)を完成させた魏柏陽を名乗る人物は、自身で仮死状態を演じて弟子の忠誠を試し、師を信じてともに死んだ弟子のみを迎え入れて、不老不死となったという。初期の中国における錬金術についての知識は、4世紀頃に中国の南部で活躍した葛洪の著作からも得ることができる。その書物では、金の成功のためには化学的な操作以外のことも必要であるとされている。すなわち、長寿を得るためには禁欲的な規則を遵守する必要があり、術を行うにあたって必要な準備や人数、環境が決まっているとした。また、術の内容は書物からだけでは得られず、必ずその道に精通した人から直接教えを受けなければならないとした。さらに、しかるべき神礼拝する信仰も持ち合わせていなければならない。くわえて葛洪は、金属変成と錬金薬の調整について多くの処方を伝えている。彼は、錬金術によってつくられた完全に均一な金と、金に見せかけるために色づけされた卑金属は区別されなければならないと指摘している。また、寿命を延ばす薬には植物を材料にしたものもあるが、不死のためには金属と鉱物を材料にしてつくった霊薬(エリクシール)以外にはないとしている。
 
 中国の錬金術の理論的な背景には、道教の考え方がある。「道(タオ)」とは、宇宙が運行すべき道を意味する。道教は、事物の第一原因を、地球の周りの天の回転に求める信仰に基づいている。道教を遂行する「道士」は長寿を望み、その欲求は不死の希望へと向かった。その結果、道士たちは、錬金術の研究と実践を行うようになった。彼らの論には三つの主要な点がある。一つ目の点は、中国人が5という数字をきわめて重視していたことである。二つ目の点は、5という数字と1から9までの数字による魔方陣との関連性である。そして三つ目の点は、「陰・陽」の理論である。一つ目の点、5の数字が重視されたことには、あらゆるものを五つにくくって捉えていた事実との関連がある。すなわち、あらゆる事物の素は木・火・土・金属・水の五元素あるいは五行、空間は北・南・東・西・中央の五方位、色は黄・青・赤・白・黒の五色、金属を金・銀・鉛・銅・鉄の五つにくくっていたということである。また、五元素、五方位、五色、五つの金属はそれぞれ関連させて考えられていた。また、これらの組み合わせは、惑星ともつなげて考えられていた*1
 
 この考え方は、中国の錬金術に見られる多くの理論や思想を理解する上でおさえるべき根本的考え方であり、後の時代に錬金術において対応関係が用いられることになる先駆けであった。二つ目の点、51から9の数字による魔方陣との関連性については、ステイプルト (Henry Ernest Stapletom) が研究している。彼は、その魔方陣が「明堂」すなわち「聖堂」の基本的な設計をなしていると指摘している。明堂は、正方形のお堂で、9つの部屋に魔方陣の数字の配列に沿って番号がわりふられている。そのお堂は、主に法令の布告のために用いられ、特に年によって変動する中国の暦を調整のための宣言に使われていた。この明堂は魔方陣の起源といえ、その設計は錬金術にとっても重要なものであった。国を司る天子は、明堂にいるときにおいては神の化身であると信じられおり、質を支配する力をもつとされていた。この明堂の基本的な設計をなした魔方陣を護符として用いることで、不老不死や金属変成を達成させるための錬金薬(エリクシル)の製造のために、この天子の力をいくらか分け与えられようとしたのである。こうした製造の過程にもやはり5という数字が関連し、材料の加熱を5回ないし5の倍数行わなければならないとされた。三つ目の点「陰・陽」の理論は、明堂が現れてから数世紀後の紀元前6世紀頃に登場した概念である。これは、宇宙の始原物資から生まれた正反対の原理、すなわち「陰」と「陽」の対立原理の概念である。「陰」は、女性的、水性の、重い、受動的、土的で、太陽と結びつくものであり、「陽」は、男性的、火的な、軽い、能動的で、月と結びつくものとされた。この二つの原理による相互作用によって、この世界を構成する五つの元素が形成されるとした。この考え方を錬金術へ拡張させ、「陽」を金などの生命や長寿をもたらす力をもつ物質と結びつけて考えられた。しかし、「陰」については受動的とされることから、特に錬金術と結びつけて考えられることはなかったとされている。
 
 中国の錬金術と、イスラムやヨーロッパの錬金術との関係については、盛んに議論が行われている。中国の錬金術の知識が、ペルシア、メソポタミア、アラビア、エジプトの錬金術師たちに影響を与えたと考えられる一方で、その逆の流れをもって影響が与えられたとも考えられている。錬金術の知識が中国から西洋へ流れた説を考えるとき、初期のアレクサンドリア錬金術師たちの周りには冶金術や試金術についてよく知る人々が多くいたため、自分の作ったものを金と主張できずに金の模造品をつくる試みにとどまったという事実が、根拠とされる。それに対して、中国では金は極めてめずらしいものであったため、錬金術師のつくった金が本物として通用する可能性は、アレクサンドリアよりもずっと高かった。よって、金属変成の理論が、中国において盛んに研究されたのではと推測される。また、中国とアレクサンドリアとの間では、盛んに貿易が行われていた。これらのことから、金属変成の考え方は、中国人によって西洋に持ち込まれたと考えられるのである。また、逆の流れを考える上でも、説得に足る論証がある。ひとつは、中国人が金属変成の理論をアレクサンドリアに持ち込んだ場合、同時に不老不死についても言及されることは必至であろうという点である。また、アレクサンドリアにおいて冶金の知識水準が高くとも、その事実は金属変成の可能性を受け入れられなかった理由としては、不十分だと言える点である。これらのことから、錬金術の知識が、中国から西洋に流れたとも、その逆の流れがあったともいえず、実際には同時に並行して金属変成の可能性の発見とその探求がなされたと考えることもできる。その裏づけとして、中国では不老不死に、西洋では金の獲得にそれぞれ重点がおかれていたことがあげられる。中国とアレクサンドリアとの間、またそれらとイスラムとの間で知識と情報の交換があったことは確かである。しかし、それが必ずしも錬金術的な知識の交流を示しているとは、いえないのである。いずれにしても、この論を展開するにあたっては、より多くのデータが必要といえる。
 
 アレクサンドリアをはじめとする東地中海沿岸諸国で錬金術が急速に発展し始める頃、中国では錬金術が衰退し始めた。1000年までには錬金術の実際的な探求は放棄され、錬金術の語彙や用語は、精神的・神秘的な学問体系に採り入れられた。こうした展開は、すでに西洋でも始まっていたものであった。一方で、中国において不死への希求はいっそう高まり、錬金術的な思考はその骨組みとして形だけ残ることとなる。

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