橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第3章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 



【第3章 中世の科学】

 

 古代ギリシアの科学は、アレクサンドロス大王の元、エジプトの都市アレクサンドリアにおいてさらなる発展を遂げた。図書館兼研究所であり、ミュージアムの語源にもなった「ムセイオン」が設立され、ユークリッドの数学書『原論』やプトレマイオスの天文書『アルマゲスト』など、各地の書物が収集され、研究の場を提供することとなった。ローマが地中海を支配した後は、自然科学は一時停滞することとなる。その理由は、ローマ人が実用的な技術や医術を重視したためであった。ローマの没落後、哲学・科学研究の中心は、コンスタンティノープルやシリア、アラビアなど東へ移ることとなる。

 

 今日使われている科学用語には、アラビア語を起源とするものが残されている。数学者アル・フワーリズミーは、数学計算のステップをさす「アルゴリズム」の語源となった。また、彼が著した代数学の書『アル・ジャーブルとアル・ムカーブルの書』の「アル・ジャーブル」は代数学をさす「アルジェブラ」の語源となった。代数的計算法は、コーランに親族への遺産分配の仕方が規定されているため、重視されていた。アラビアの科学は、9世紀におけるシリア・ギリシア文献の翻訳運動から始まった。カリフ、アル・マアムーンによってバクダッドに研究所「知恵の館」が設立され、文献学者フナイン・イブン・イスハークによる大規模翻訳活動が展開された。数学や天文学、医学、哲学各領域で独創的な研究が展開された。また、アリストテレスユークリッドプトレマイオスらの学問成果が継承され、部分的に批判・修正された。

 

 12世紀になると、アラビアで継承発展されたギリシアの学問は、ラテン世界へ輸入される。ヨーロッパの諸都市が活気づくことを背景に、学問の教育と研究を行うことを目的といた「大学」が設立されることとなった。大学において、アラビア語学術文献がラテン語訳された文献(写本)がテキストとされた。イタリアで生まれたジェラルドはスペインへ赴き、70冊にもおよぶラテン語訳を成した。この中にはアリストテレスユークリッドプトレマイオスなど、ギリシア科学の基本文献が含まれていた。大学を構成するのは、神学・法学・医学の専門学部と、そのための基礎教養を担う学芸学部であった。哲学部とも呼ばれる学芸学部においては、自由学芸七科とよばれる基礎科目が学習された。その内容は、文法・修辞学・論理学の三科目と、算術・幾何学・音響学・天文学の四科目であった。論理学においては三段論法と議論の作法が教えられ、中世の大学で重視される科目であった。

 

 アリストテレスの哲学体系が大学で研究され知られるようになると、アリストテレス哲学とキリスト教の教えの間にある食い違いが認識されるようになった。このことついて、学芸学部の哲学者たちと神学部の神学者たちで異なる見解をもち対立するようになり、13世紀を通してパリ大学で激化することとなった。1210年にパリ大学にてアリストテレスの著作が読解禁止になり、1255年になるとその禁止令が解除された。しかしながら哲学部と神学部の対立は深刻化し、1270年に13の命題がキリスト教に反する誤ったものとして選定された。1277年には教皇ヨハネ21世に命令されたパリ司祭エチェンヌ・タンピエによって「タンピエの譴責(けんせき)」とよばれる219の命題が選定され、これら誤った命題を主張したらキリスト教から破門されることとなった。選定された、すなわち否定されたアリストテレス哲学の命題は、次のようなものであった。すなわち、神学的真理の他に哲学的真理が認められことはないとして否定された「真理の二重性」、神の創造によって始まり神による最後の審判があるため否定された「世界の永続性」、神は絶対的な力をもっているため最外天球の外にも世界を創造できるために否定された「世界の単一性」、全能の神は真空も生み出せるとして否定された「神は天体を直進運動させられない」というものなどであった。

 

 タンピエの譴責は知的活動を制限するものであると同時に、アリストテレス哲学を超えるきっかけをあたえるものであった。14世紀中葉、パリ大学学芸学部の教授であったジャン・ビュリダンは、キリスト教すなわちタンピエの譴責からはみ出ずにアリストテレス哲学を精緻化し、自然学の理論を組み立てた。彼が著した『自然学問題集』はアリストテレス哲学の授業の講義ノートであり、彼の主張が記されている。すなわち、神は真空をつくることができ、天体を直進運動させることができるが、真空は神学の領域であり哲学者としての自分の領分を超えた問題であるとした。また、投射体の運動についてアリストテレスの考えに反論している。投げることで手から離れた石は自然運動をしているのか強制運動をしているのかという問題に対し、アリストテレスは、物体が動くことにより前方の空気が後方に回り込み物体を後ろから押している、つまり強制運動をしているのだとした。このような駆動方式を、アリストテレスは「アンチペリスタシス」とよんだ。これに対しビュリダンは反論として、回転する石は空気に押されているわけではないことや、先端も末端も尖った槍がよく飛ぶその場合空気はどうやって押すのかという点を指摘した。この回答としてビュリダンは、石には投げる動作によって、物体を動かす本性をもつ性質である「インペトゥス」がこめられ、これが駆動力の源になっていると主張した。これは、近代力学の「慣性」に近い発想であった。

 

 このように中世における自然学の研究は、キリスト教神学という枠内で進められながらも、アリストテレス哲学を超越した可能性について考察する豊かさをもっていた。