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古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第3章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

  【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第三章大学と学会(南窓社、2001年4月)p49−p65

 
 16−17世紀において新しい学問である近代科学が誕生したのは、大学の外においてであった。当時から今日まで学校という組織は、既存に確立されているある時代に支配的な枠組みすなわちパラダイムを、次世代を担う学生たちに伝授していくことでその後継者を拡大再生産するという保守的な機能を担っている。16−17世紀当時の学問のパラダイムは、スコラ学であった。スコラ学は中世後期から近代初頭までに確立し、カトリック教会の公認を受けて大学と教会に支えられていた。
 
 14世紀にはオートルクールのニコラのように、大学人でありながらアリストテレス主義に反旗を翻した者もいたが、結果として彼はパリ大学を放逐されることとなった。このようにキリスト教会から思想的理由で異端の烙印を押された学者は少なくなかった。ブルーノは投獄の末に火刑に処され、コペルニクスの著作は教会史上初の禁書目録入りとなった。ガリレオと教会の対立は単純に科学と信仰の対立と捉えがたいが、ガリレオがローマ教会公認の天動説に背いたことから教会に裁かれたことは事実である。教皇庁のこうした処置は、反宗教改革の気運の中で政治的権威を堅持する意思表示でもあった。ヨーロッパの大学は、その起源からカトリック教会と不可分の関係にあった。初期の大学の教師はほとんどが聖職者であり、学生の大半は教会関係の仕事に就くためにそこで学んだ。ガリレオの時代までには大学の世俗化が進み、聖職のための機関という性格は弱まり始めていたが、学問的にも制度的にも教会の統制を受ける状態は消えていなかった。よってこのような風土をもつ大学という舞台において、新しい学問である近代科学は萌芽し得なかったのである。
 
 大学の起源は、12世紀ルネサンスの大翻訳運動まで遡る。それ以前の教育の場といえば修道院や司教座聖堂付属学校であったが、12世紀という知的高揚に満ちた特異な時代背景から、大学という新しい機関は生まれた。その役割は、アラビア世界から西欧に流入した膨大な量の新たな知識を研究し、発展させることにあった。大学、すなわちユニバーシティの語源であるラテン語のウニヴェルシタスには、教師と学生によるギルド的組合の意味がある。それは、大翻訳運動の最中に都市にて自然発生した私塾などの教師と学生が、自己の生活を外部から自衛するために、一般の手工業者の同業組合にならって組織したギルドが発展した機関である。大学の入学資格には年齢や学歴による制限はなく、教授会の認定で入学や卒業が決められた。ローマ教皇庁もその保護に積極的に加わったが、大学の運営は基本的にカトリック教会と深く結びついていた。教皇庁は世俗権力や各地の教会に対する優越をめざし、くわえて思想的統制をはかるべく大学を支配下に置いていた。教師は聖職者で占められ、また聖職者の養成が大学の重要な使命であった。宗教改革を経て各大学は宗教的色彩を強めることとなる。くわえて世俗権力の台頭と国権の強大化に伴い、国家の官僚を養成することもまた大学の大きな使命となった。1500年までの間にヨーロッパの諸都市では相次いで大学が創設されたが、今日に残るヨーロッパの大学の多くはこの時期に創設されたものだ。中世後期において科学を含むほとんどすべての知的活動は、これら大学の中で行われた。くわえて中世科学を代表する学者はみな、当時のパラダイムであるスコラ学の学者であった。
 
 中世の大学の上級学部には、神学・法学・医学の3つの専門過程があり、聖職者・法曹家・医師の養成を行っていた。この形は19世紀前半まで続いた。科学が大学で正規の専門教育として取り入れられるのは、19世紀以降のことである。中世の大学では専門に入る前の一般教育の場として学芸学部が設置されていた。哲学部と呼ばれることもあるそれは、中世の修道院付属学校や司教座聖堂付属学校以来の伝統的カリキュラムであった七自由学芸が踏襲されていた。その内容は、文法・修辞・弁証術の三科と算術・幾何学天文学・音楽の四科からなり、いわば実用教育に対する人間形成教育・教養教育であった。中世の大学では、神学や法学などの専門課程だけでなく、学芸学部においてもアリストテレスの学問が浸透していた。すなわち、大学の学問の柱はアリストテレス学であり、学者集団はそれを教授し維持することを使命としていたのである。そしてこの傾向は、科学革命期の大学においても実質的に変わりはなかった。
 
 新しい学問である近代科学の活動の場とされたのは、大学の外に成立した新しい学者の共同体、すなわち学会であった。学会の起源はイタリアルネサンス人文主義運動とかかわりがある。学会の支援者は、教会の対抗勢力として都市の政治や経済を牛耳るようになった世俗の富豪たちであった。15世紀前半にメディチ家の保護を受けて設立されたアカデミア・プラトニカ設立以後、イタリアでは多くのアカデミアが乱立した。その中で植物学者であったチェージ公自ら1603年にローマに設立した「アカデミア・デイ・リンチェイ(山猫アカデミア)」は、自然の探求を共通目的とした最古の学会の一つである。ガリレオもその会員として活躍し、『太陽黒点論』と偽金鑑識官を意味する『イル・サジアトーレ』の二冊の書物を同会から出版した。1657年にはフィレンツェメディチ家パトロンとした「アカデミア・デル・チメント(実験アカデミア)」が創設され、ヴィヴィアーニを始めとするガリレオの弟子たちが中心となって活動した。ここでは様々な共同実験が行われ、その成果は『サッジ』という自然についての実験論文集にまとめられた。しかしながらイタリアに誕生したこれら「ルネサンス型アカデミア」は、いずれも短命であった。なぜなら、これらの集まりは小規模かつ私的・社交的な集まりであり、パトロンが亡くなるとともに解散してしまうすケースが多かった。フランスにおいてはメルセンヌを中心としたサークルが生まれ、書簡のやり取りを通してヨーロッパ中の自然探求者の情報交換の場となったが、やはり彼の死をもって自然消滅してしまっている。しかしながら、ロンドンに誕生した王立協会は、これらをはるかにしのぐ学会であった。
 
 今日に続く最古の歴史を持つ科学の学会であるロンドン王立協会の創立と活動は、ベイコンの学問革新論と深くかかわっていた。ベイコンにとって知識は力であり、これによって自然を服従させ、意のままに役立たせることができた。そのために観察や実験によって自然現象についての知識を出来る限り多く集めなければならなかった。それには、自然探求者の共同作業が必要になると考えられた。ベイコンが執筆した科学のユートピア的小説『ニュー・アトランティス』の中で彼が描いた「ソロモンの家」は、この目的達成のために作られた学者の共同体であった。この発想に刺激を受けて生まれたのが、王立協会である。王立協会には、ボイルを中心とした「見えない大学」と称する非公式なグループやグレシャム・カレッジの有志が集まり、1662年に国王チャールズ2世の勅許を受けて「自然についての知識を改良するためのロンドン王立協会」という正式名称で発足した。王立と冠しながらも、その実際は私立の学会であった。イギリスでは多くの場合、「王立」とは王室から権威の象徴として名目的に認可された冠称に過ぎなかった。ゆえに共同出資制をとったため、結果的にパトロン個人に左右されない安定性をもっていた。私設であった王立協会は。それゆえ個人主義的・アマチュア主義的体質をもっていた。また、興味を持つ者に広く門戸を開いたため、実際には研究活動をしていない名目的な会員が多数選出され、会員の大半を占めることとなった。彼ら名目的会員たちは財政をうるおすとともに、協会の社会的威信を高めるという利点があったために歓迎された。
 
 王立協会は、ベイコンの理念に従い、自然の観察や実験を通して得た新知識を持ち寄って論じ合うことに重きを置いた。1665年には、書記のオルデンブルグによって学会の成果の発表の場として、機関誌『フィロソフィカル・トランザクションズ(哲学紀要)』が創刊された。これが今日まで続いている最古の科学雑誌である。これは迅速な研究結果の発表メディアという機能を備え、今日の学術雑誌の先駆となった。この王立協会には、創立時からベイコン主義者であるボイルがかかわっていた。また、ニュートンの活躍の場は大学よりもむしろ協会であり、ここで『プリンキピア』などの主要著作を出版し、晩年には長くその会長を務めた。フックは1663年より協会の実験責任者となり、積極的に公開実験を行った。
 
 フランスでは1666年にパリで王立科学アカデミーが誕生した。この学会の創立理念もまた、ベイコンの思想と深くかかわっていた。王立科学アカデミーは、ガッサンディホイヘンスが活躍して脚光を浴びていたモンモール・アカデミーの会員によって科学の研究に国家の援助が必要であることが政府に訴えられ、ルイ14世に仕えていたコルベールの力を得て、ロンドンの王立協会創立から4年後にパリで創立された。王立協会と同じくベイコン主義に従い、科学研究の社会的有用性を主張した王立科学アカデミーは、技術的生産性を優先させる重商主義政策を推し進めようとしていた財務総監コルベールの政策とも合致するところがあっただけでなく、ルイ太陽王の威光を全ヨーロッパに誇示するためにも有用であると判断され、科学と技術の公的諮問機関として発足することとなった。
 
 王立科学アカデミーの気風は、イギリスの王立協会とは極めて対照的であった。王立協会が比較的多様な社会階層に門戸を開いた私立団体だったのに対し、王立科学アカデミーは選ばれた少数の科学者から構成された国家直営の王立研究所であった。政府からの財政援助のもとに研究が進められ、会員には政府から俸給が与えらえた。しかしながら、俸給とはいえど生計を立てられるほどの額ではなかったため、他に仕事を持っていた会員が多かった。また、特別会員としてニュートンら外国人の会員ももっていた。アカデミーは幾何学天文学・力学・解剖学・化学・植物学の6部門からなり、各部門は正研究員3名・準研究員2名・助手2名から構成された。方法論的にはとくにベイコン的な実験科学が重視され、そのために高価な機材や設備も導入された。研究員は各自が選択するテーマにくわえて、政府から依頼されたプロジェクトに参画させられた。さらにコルベールの工場制手工業の育成策と相まって、織物・染物・陶器・高山・冶金などの技術の監督や改善にも携わった。また、国内の技術の特許はすべてアカデミーで審査された。このように王立科学アカデミーは、国家機関として実質的に旧体制下のフランスの科学界・技術界を支配する立場にあった。この独占的・閉鎖的なエリート主義に対してフランス革命以前から批判はあったが、中央政府に直接コントロールされたその科学体制はフランス革命後の19世紀まで尾を引き、フランス科学に独自の学風を植え付けることになる。
 
 ロンドンの王立協会とパリの科学アカデミーは、学会の二つの異なるモデルとなった。個人主義的・アマチュア的性格を持った王立協会は18世紀にイギリスやアメリカに誕生した私設の学会の原型となり、国王ないし国家主導型の科学アカデミーはヨーロッパ諸国に18世紀に相次いで設立された王立科学アカデミーのモデルとった。
 
 このように、17世紀以後の近代科学の活動の拠点となった学会を背後で支えたのは、世俗の新興富豪や君主、貴族であり、カトリック教会ではなかった。学会成立の背後には、それまでヨーロッパの政治や経済、文化を支配下に置いていた教会に対抗して、都市や国家における新しい主導権の担い手が台頭していたという事実があった。