古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第2章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

 【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第二章キリスト教文化における近代科学(南窓社、2001年4月)p33−p48

 

 ヨーロッパが様々な国や民族から成り立っていながら文化的統一性を維持していたのは、キリスト教という共通の宗教を基礎としていたためである。このキリスト教文化が持つ自然観は初期近代の科学と相互に関連していた。
 
 イギリスの思想家フランシス・ベイコンの科学観は、同時代にとどまらず後世の人々に対しても様々な意味で絶大な影響を与えた。ベイコンの著書である『ノヴム・オルガヌム』は、新しい科学の方法と役割を体系化した彼の業績を象徴している。そこには、「技術としての科学」「技術のための科学」というスローガンが込められていた。そのスローガンには、科学とはそれまでのスコラ学のように学問に終始するものではなく、自然を支配し変革して人間生活の改善を目指すための営みであるという意味がこめられている。それゆえベイコンにとって、アリストテレスの哲学よりも職人たちの技術の方が、人間が自然を利用し搾取すること、すなわち自然を支配することに貢献してきたのだ。
 
 人間による自然のコントロールという姿勢をもつベイコンは、科学のあるべき方法として、一般原理から個々の現象を説明する演繹法に代わって、実験や観察による膨大なデータから公理を導き出す帰納法を強調した。また、このベイコンの思想に依拠したベイコン主義は、実験や観察のみを科学の出発点とすることから今日批判されているが、ベイコン本人は漠然と無闇に実験をするのではなく、組織化して方向付ける必要性を強調していた。このようなベイコンの実験的手法は、ボイルの新実験哲学からもみられるように、17世紀以降の多くの自然探求者の科学活動の指針となった。そしてそれが洗練され精緻化し諸領域に適用され実を結んだのは、18世紀以降のことであった。
 
 ベイコンの思想に見られる自然に対する姿勢には特徴がある。それは、主体と客体の分離、自然支配、自然改造の概念である。しかしこれらは、ベイコン独自のものではなく、むしろこの時代の自然探求者の特徴を定式化したものであるとも言える。また、ベイコンが新しい科学の目的と方法を記述するのに用いた表現スタイルやレトリックは、本来彼の専門であった法律のそれと重なっていた。
 
 イタリアの歴史家ロッシの研究は、歴史家がそれまで無視してきたルネサンスの魔術とベイコンとの深い関わりを明らかにしている。ルネサンスの魔術思想は、新プラトン主義やヘルメス主義やカバラ主義と混合して発展した思想で、自然を神から与えらえた隠れた力をもつ存在とみなした。ロッシによればベイコンは、ルネサンス魔術思想からつよい感化を受け、そこから自然の力を知ることにより世界を支配する術を獲得しようとする観念を汲み取り、それをキリスト教のもつ神・人間・自然の関係の思想の基盤に乗せたという。ベイコンは後に魔術の批判者に転じたが、その要素をキリスト教的世界観に組み入れて新しい科学観・自然観に転換したといえる。
 
 またベイコンが主客の分離が可能だと考えたのは、キリスト教の教義に基づいたためであった。そのため、人間は特別な存在であり、人間の下に自然があって、人間は自然を知ることによって支配できると考え、よって科学活動は信仰活動であると捉えていた。当時多くの自然哲学者は、このようなキリスト教的自然観を共有していた。その中でのベイコンの立場は、自然探求によって神の偉大な力を知ることはできるが、被造物の考察自体からは神の本質や属性を知ることはできないというものであった。またベイコンは、自然解釈が過度に働くことによって、信仰の心理が侵食されるおそれがあることを危惧した。いかなる自然の知識も、聖書の前では無力であると考えたためである。後のベイコン主義者と違うのは、ベイコン本人は信仰と科学を分離していたということである。結果的にキリスト教的自然観を反映したベイコンの科学の方法と理念は、逆説的に科学が神離れしやすい要素を内包することとなった。
 
 科学社会学の祖であるアメリカのマートンは、著書『17世紀の英国における科学・技術・社会(1938年)』において、キリスト教的自然観の普及と科学の興隆を宗教革命、とりわけイギリスにおけるピューリタン革命(1642年から49年)とを結びつけて論じた。ピューリタンは、その信仰や生活態度が功利主義・経験主義・理性主義といったエートス(価値観、倫理観、信念の総称)をもっていた。ピューリタンは、絶え間ない努力によって現実の社会や自然を作り変え、悪や欲望を征服しようと目論んでいた。つまり、ピューリタンにとって自然を研究することは、神の知恵と力と善を理解するための有効な手段であったのだ。そのために、実験や観察などの理性を用いる作業が重視された。これは、ベイコンの科学観すなわちこの時代の新しい科学観と一致した。よって、ピューリタンの台頭により科学活動が活発化することとなり、17世紀科学興隆の大きな要因となった。これらの事実を示すためにマートンは、17世紀当時の自然探求者の中のピューリタンの割合を統計データで示した。この手法は、科学史や知識社会学の研究において多くの人物の履歴・伝記を調査し、その中になんらかの共通項を探し出す手法すなわちプロソグラフィーの先駆となった。
 
  その後、以上の「マートン・テーゼ」をめぐって学者間で賛否両論が巻き起こった。ピューリタンエートスは当時の科学のエートスから影響を受け、またはその逆もあったという、どちらの面も持つ切り離せないものであったためである。すなわち、この時期の信仰と科学活動の動機は深く関わりあっていたのだ。マートン・テーゼが確かに明らかにしたことは、プロテスタンティズムの改革運動の流れの中で、ベイコン的科学観が社会に受容されるようになった事実である。ひとつ留意しなければならないのは、マートンが論じたのは17世紀イギリスに限定した話だったということである。観察・経験を重んじた科学は他のヨーロッパの国々にもみられ、また、プロテスタント系科学者とカトリック系科学者の間に思想的な相互影響があったことも見受けられる。そのため、マートンのいう「イギリス的エートス」はピューリタンプロテスタントだけの物ではなく、むしろ「クリスチャン・エートス」としてキリスト教全般のエートスが科学活動を促していたとして捉えるべきものであった。
 
 キリスト教の教義に根差した科学活動が展開される17世紀当時の自然探求者の神と自然に対する基本的な考えを、イギリスのティムが1612年に書いたある一節が端的に物語っている。そこではすなわち、「創造主は二つの重要な書物を我々に差し出した。自然という書物と、聖書である。」ということが語られている。このようなキリスト教信仰の上での動機から、神の示す第二の書物すなわち自然の探求に駆られて科学活動が行われた。多くの自然探求者による科学活動の思索の根底には、神の概念があったのである。これは我々現代人が持っている科学観とは異なる。例えば、ケプラーガリレオにとって、神は偉大なる数学者であった。よって、自然の背後には数学があり自然現象は数学によって解明できると考えた。現代では疑念すら持たれなくなったこの視座は、もとはルネサンスで復活したプラトン思想に1つ着想のルーツをもっており、これは近代ヨーロッパの文脈においては信仰と調和して発展することとなった。
 
 17世紀の自然観を代表する機械論哲学は、科学革命期に台頭した思潮で、ボイルによって命名された。機械論哲学は、神の世界創造、主体と客体の分離、人間の自然支配、これらの思想と整合する世界観であり、世界全体を神が創造した巨大な機械と捉えた。よって、既存の機械やそのモデルとの類比によって、機械と同様の原理をもって自然現象を解明しようとしたのである。この時代の自然探求者たちはこの機械論的アナロジーに基づく世界観を供給しており、また、数学的世界観とこの機械論的世界観の両方を併せ持っていたものも多い。機械論哲学の代表者であるボイルは、この世界を17世紀当時最も精巧の機械として知られていたストラスプールの大時計にたとえて、時計の製作者と世界の創造主である神をつなげてとらえ、称賛した。また近代合理主義の祖であるフランスのデカルトは、機械論的なアナロジーを聖域とされていた人体にも適用した。デカルトによれば、人間は神が創造した最も精巧な機械であった。
 
 機械論には、生物体を生命を持たない不活性な物体からなる機械の集合体とみなして、その物体の機械的・力学的運動からのみ体内の諸作用を説明しようとする姿勢があった。こうした視座は、全現象を究極的粒子の運動や衝突からのみ説明する古代原子論の影響を受けている。無神論的彩色の強いこのギリシア原子論も、この時代にはガッサンディらによってキリスト教化されていた。機械論においてアトムという語の使用は避けられ、あえて「粒子哲学」という異名がつけられた。ボイルによって広められたこの西欧版原子論は、機械論哲学と一体化していた。機械論哲学はまた、自然魔術に対する対抗文化として登場した側面もある。当時の知識人にとって機械論哲学の魅力のひとつは、その論理的明快性にあった。身近な生活の中にある機械と関連付けることで、思い描きやすかったのである。その意味で、それまで中世の自然学を支配してきたアリストテレス的な抽象概念の世界とは極めて対照的であった。また機械論哲学は、神を世界の製作者として讃えることができたことも、キリスト教を信仰していた当時の知識人にとって魅力的であったといえる。キリスト教の霊魂不滅の教義に従ったデカルトの機械論的アナロジーはそれゆえに感覚どまりであり、精神作用にまでは及ばなかった。この意味でデカルトの人間機械論は、正確に言えば「身体機械論」であり、そこでは主体たる精神と客体たる機械的自然の分離が維持されている。こうして機械論は西欧近代科学の基本的な認識論の一つとして強化されいった。そしてその流れは20世紀の人工知能研究へもつながっていくこととなる。
 
 以上のように、主客の分離、人間の自然支配、実験、法則性の発見、数学的自然学、機械的世界像等の、今日の科学が諸要素はヨーロッパ固有のキリスト教的自然観と深い関わりを持っていた。そしてこのような自然観は西欧特有のものであった。それは、錬金術の思想からみる西洋と東洋の自然観の違いにおいても明らかである。錬金術の目的は、西方と東洋では大きいく違った。初期ヨーロッパ系錬金術の目的は、卑金属を貴金属の金に変えて富財をなすことであった。対して中国の錬金術では、不老長寿をもたらす金、すなわち丹とよばれた薬の探求がなされていた。また東洋においては、人間が自然と融合することに大きな価値が置かれ、人間と自然を故意に離反・対立させる西欧的枠組みは希薄であった。このように、今日普及している科学は、西欧固有の文化的土壌で育まれた特異な科学であったことを留意すべきである。

古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第1章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第一章二つのルネサンスから近代科学へ(南窓社、2001年4月)p19−p32

 

 16世紀から17世紀のヨーロッパにおいて、近代科学の基盤がつくられた。宇宙観や人間の自然における位置の概念が一新されたため、この時期を「科学革命」と呼ぶことがある。このような呼称は、18世紀のフランスの啓蒙主義者たちによって最初に表現され、後にイギリスの歴史学者バターフィールドの著書『近代科学の起源』によって歴史用語として定着したとされている。科学革命が起こったとされる年代に統一した見解はないが、コペルニクスの『天球の回転について』やヴェザリウスの『人体の構造について』が出版された1543年を起点とし、ニュートンの『プリンキピア』が出版された1687年を完結点とする場合が多い。
 
 近代科学は、多くの面でギリシア科学を土台としている。しかし、この古代ギリシア時代からヨーロッパ近代の間には千年以上の期間があり、そのためヨーロッパにおいてギリシア科学は中世後期まで忘れ去られていた。その後、ヨーロッパがそのギリシア科学を再発見し復活させた時期が2回あった。一つが「12世紀ルネサンス」と呼ばれる時期であり、もう一つが14世紀から15世紀に起こった「ルネサンス」である。
 
 12世紀ルネサンスではヨーロッパにアラビア科学が受容され、アラビア語の数々の書物がヨーロッパの共通学問言語であったラテン語へと翻訳されていった。これによって、医聖ヒポクラテスや万学の祖アリストテレス、数学者エウクレイデス(ユークリッド)、天文学者プトレマイオス、医学者ガレノスら古代ギリシア人たちの著作がヨーロッパに続々と紹介された。とりわけアリストテレスがヨーロッパの知識人たちに与えた影響は大きい。アリストテレスの著作としては、彼がつくった学校であるリュケイオンの当時の学頭アンドロニコスが、紀元前1世紀にアリストテレスの議事録を元に主題別に編纂した『アリストテレス著作集』があげられる。その主題には、『分析論前書』、『分析論後書』、『自然学』、『霊魂論』、『生成消滅論』、『天体論』、『気象学』、『形而上学』がある。これらの著作は、イスラム学者たちの注釈と一緒に、ヨーロッパの学者たちによってラテン語に訳された。
 
 13世紀になると、ドミニコ会士の聖トマス・アクィナスらによってアリストテレス哲学とキリスト教教義が融合され体系化し、「スコラ哲学」がうまれた。これは大学の主要な学問として扱われたが、信仰すなわちキリスト教教義と理性すなわちアリストテレス哲学のどちらを優先すべきかについて論争を巻き起こしていた。とりわけイスラムの哲学者アヴェロエスの解釈とキリスト教教義との間に矛盾が生じていた。そのためパリ大学内部では、このアヴェロエスの注釈を支持する学芸学部を中心とした「ラテン・アヴェロエス主義」と、それまで絶対視されてきた聖書の教えを尊重する神学部との間で論争がおこった。神学部が問題視していたアヴェロエス主義の内容のひとつに「二重心理説」がある。これは、哲学上の真理と信仰上の真理が矛盾した場合、両者共に認めるという立場であった。ほかには、アリストテレスの「世界の永続性」の概念がある。これは世界には初めも終わりもないとする考えであり、このことは神の天地創造を否定するものとして強く反発された。パリ大学の神学部教授であったトマス・アクィナスは、反アヴェロエス主義の側に立った。このパリ大学内の学芸学部と神学部の対立は発展し、1277年にはパリ司祭のタンピエによって断罪された。それはすなわち、アヴェロエス派が主張する219箇条の命題について、そのいずれか一つでも弁護する者は破門に処すという布告であった。このパリでの断罪の件は、アリストテレス解釈の多様化を促し、14世紀の知的風土を生み出すこととなった。
 
 第二のルネサンスである「イタリア・ルネサンス」は、14世紀イタリアのトスカナ地方の都市共和国フィレンツェが中心であり、大富豪のメディチ家がその熱心なパトロンとなっていた。12世紀ルネサンスイスラム世界から入った古典学芸をアラビア語を介して復興した運動であったのに対し、イタリア・ルネサンスはギリシアやローマの原典を広範から収集し原語からラテン語訳をして厳密に研究したことに特徴がある。とりわけ、1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル陥落時にギリシア語の古写本がフィレンツェに大量に持ち込まれた。また、ヨーロッパ各地の修道院に伝わる古写本が大規模で調査されたことも、古典学芸の広範な収集活動の一つであった。これを契機に、プラトン哲学やヘルメス思想、原子論やギリシア数学など、12世紀ルネサンスでは蘇らなかったギリシア思想が復活することとなった。またこれらは、科学革命の特徴の一つであるスコラ的アリストテレス主義の棄却を促す対抗的思想となった。
 
 コンスタンティノープルからの亡命学者プレトンは、メディチ家の統領コジモ・メディチの保護のもと、1443年にフィレンツェにてアカデミア・プラトニカという学者の研究機関を創設し、プラトン哲学やヘルメス思想の復活に努めた。ここで、わずかしか知られていなかったプラトンの著作が原文で研究されることとなる。アカデミアの学頭でコジモの侍医であったフィチーノは、1484年にプラトンラテン語版全集を出版した。またフィチーノは、1460年にマケドニアで発見された『ヘルメス文書』のラテン語訳『ヘルメス大全』を1484年に刊行した。ヘルメス文書とは、紀元前3世紀から紀元前3世紀にかけてエジプトで書かれたヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる神の教えと伝えられる文書群である。その思想は、魔術や宇宙論占星術錬金術を取り込んだ深遠なものであり、ルネサンス人を魅了した。また、コペルニクスパラケルスス、ディー、ブルーノ、ケプラー、ファン・ヘルモントらに大きな影響を与えた。
 
 レウキッポスとデモクリトスによる古代初期の原子論の存在はアリストテレスの著作を通じてすでに知られていたが、その学説を正統に継承したギリシア後期のエピクロスやローマの詩人ルクレティウスの原子論思想はこのイタリア・ルネサンスの時期に蘇った。ルクレティウスの思想は1417年に彼の叙事詩『事物の本性について』の写本をポッジョ・ブラッチョリーニによって修道院から発見されることによって、エピクロスの思想は後期ギリシアの哲学者ディオゲネス・ラエティオスの『著名哲学者の生涯と教説』に引用されていたことから、ルネサンス人の目に止まることとなった。このラティオスの著作は、1431年にトラヴェルサリによってラテン語に訳された。17世紀になると、このラテン語訳をもとにフランスのガッサンディエピクロス的原子論をヨーロッパ広範に普及することとなる。
 
 イタリア・ルネサンス以後、科学が途切れることなく確実に伝承され、また学問が比較的広い層に行き渡ることになる背景には、印刷技術の発展と普及があげられる。12世紀ルネサンスでは口述文化・写本文化であったが、15世紀中葉にドイツのマインツグーテンベルク活版印刷を発明し、15世紀中頃までには製紙術が羊皮紙より安価な麻布を原料として確立されたことによって、広範囲にそして急速に知識が伝播することとなった。一方洋の東、中国では、その700年前である8世紀初頭の唐の時代には、すでに木版印刷が発明されていた。
 
 西欧の自然探求者たちは、このイタリア・ルネサンスで蘇った古代思想を拠り所として、彼らの時代の価値観と調和させながら新しい世界観を築き上げた。16世紀以降出現した「数学的自然観」「新実験哲学」「粒子哲学」「機械論哲学」など、西欧近代科学を特徴づけるこれらの自然認識は、イタリア・ルネサンス時代のギリシア著作の復活に源流を持つ。数学的自然観はプラトン思想と、新実験哲学は部分的にヘルメス主義と、粒子哲学や機械論哲学は古代原子論と、深くか河内あっている。これらの思想は相矛盾する面もはらんでいたが、アリストテレス主義の対抗思想となった点で共通している。またこの時代には、アリストテレス思想自体についても中世とは違った解釈が生まれるようになった。その理由としては、ギリシア語の原典や古代人の注釈書から直接研究し直されたことがあげられる。
 
 ルネサンス運動のベースとなった人文主義は、古典の収集や模倣、文献学的研究によって古代文化を再生し、それを手本として封建社会から人間性を解放・復興させ、個人としての自我の自覚をはかろうとする思潮であった。これを標榜する人文主義者たちは、スコラ学や既成の大学、教会の権威を批判する勢力となり、当時の社会を批判した。しかし現実には、イタリア・ルネサンスのもつ貴族的性格から、直接社会を変革するには至らなかった。
 
 古代とルネサンスとの間にある「中世」という時代区分は、人文主義者たちのルネサンス的価値観に基づく歴史意識から芽生えたものである。普通4世紀初めのコンスタンティヌス帝の時代から15世紀中葉のコンスタンティノープル陥落までをさすこの「中世」は、18世紀の啓蒙主義の興隆によって暗黒時代という印象をさらに強調されるようになる。とはいえ、古代人の英知から真理を学びとることができるという信念に裏付けされたこの熱狂的な復興運動は、結果的に西欧世界に大きな知的転換を招く一つの背景になったのであった。

古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』序章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』(南窓社、2001年4月)p9ーp18】  

 19世紀中頃、欧米列強の植民地化の脅威にさらされていた日本は鎖国を解いて開国した。開国後、殖産興業・富国強兵のスローガンのもと、国策として西欧の科学と技術を制度ごと導入した。こうした近代化は、日本を大きく変貌させることとなる。
 
 日本が開国をするきっかけとなったペリー来航のあった19世紀半ばのヨーロッパは、産業革命が進行し、技術の飛躍的な発展を遂げていた。その当時のヨーロッパにおける近代的技術の産出は、科学によるものではなく、職人や技術者たちの経験や創意工夫、試行錯誤、実験の賜物であった。科学を基礎として成り立つ技術である「科学的技術」が登場するのは、それよりしばらく後である。しかしながら、近代技術の発展の原動力はひとえに科学の進歩によるものであるというパブリック・イメージは、この19世紀半ばの欧米においてすでにできあがっていた。
 
 同様に、文明開化の日本が見た西洋科学とは、純粋な自然の探求というよりも、実用的技術の開発に近かった。日本において「science」の訳語が「科学」であると普及し定着するより前は「理学」という言葉があった。この理学は明治期において、自然の探求だけでなく技術あるいは工学をも包含した学問であると理解されていたこともまた、実用的技術の開発のための西洋科学という理解がなされた一因であるといえる。明治の約半世紀にわたる西洋科学の受容の過程で生まれた日本人の科学観は、技術と強く結びつき、技術を媒体として社会を変える大きな力となりうる科学という「結果としての西洋科学」の性格を色濃く反映している。
 
 そもそも、西欧文明が入ってくる前の日本において「科学」という言葉は存在していなかった。scienceの訳語として科学という言葉をつかった最初期の人物に、哲学者の西周がいる。彼は、流入当時の西洋科学が様々な分野に専門的に分化していた様から、様々な「科」からなる「学」問という意味をもつ「科学」をその訳語にあてた。なお、今日中国や南北朝鮮でもscienceに対して同じ漢字を使うが、これは日本からの輸出語である。また、もし哲学・思想・宗教を包含した、境界を持たない未分化で幅広い知的営みであった17世紀頃の西洋科学が流入していたなら、違う訳語があてられていただろうと推測される。
 
 自然に関する知識の体系とそれをつくり出す営みを広く科学と呼んだとき、それは古代から近代に至るまで、ギリシア・インド・アラビア・中国・日本など、洋の東西にかかわらず存在していた。今日われわれが科学といえば、ヨーロッパで生まれた近代科学をさす。これは16世紀から17世紀の西欧近代の幕開けに成立した科学の総称であり、現代においてはあえて「ヨーロッパ」科学と断り書きをつけるまでもないほど国際化している。
 
 近代科学は、その誕生から今日に至るまでの約4世紀の間に大きな成長をとげた。16世紀末から17世紀初めには、科学という営みはまだ社会で「市民権」すらもっておらず、大学では科学の専門教育は全く行われていなかった。また、科学は職人技術とはほとんど融合していなかった。科学は哲学や宗教と区別できない営みであったし、そもそも宇宙の理解や自然の探求は総じて神の計画を理解するという信仰上の動機から行われていた。
 
 現代の科学は、社会的に大きな意味をもつ営為になっている。科学はそれ自体、社会的に定着した仕組みとして制度化し、また職業としても確立されている。大学は職業科学者を量産し、科学研究を行う場や環境も整えられ、政府は国策の柱として科学政策を打ち立てている。哲学や宗教や文化的価値から遊離した知的活動である現代の科学は、その内部において様々な分野に分化し高度に専門化している。そんな現代科学の使命は、神の計画を知ることや教養、文化活動といったものよりも、ひとえに社会や国家の実益に資することにあるとみなされる傾向が強い。科学と産業技術や軍事技術との結びつきは深く、それらの分野での諸成果を通して社会に大きなインパクトを与え、現代文明の中枢で機能している。
 
 今日の科学の社会的相貌は、ヨーロッパの4世紀の歴史における科学と人間と社会とのダイナミックな相互作用の中から形作られてきたものであるともいえる。現代において科学は世俗化され、いわばマニュアル化されて国際的にも伝達可能な様相を帯びている。19世紀以降、急激にヨーロッパの科学文明が世界を席巻するようになったのも、社会的基盤と意義をそなえた営為に発展していたことによるところが大きい。日本が19世紀後半に西洋近代科学を導入した際、それを支える諸制度の移植の方が、科学の理論や思想といった中身の理解・摂取よりもむしろ先行していたのも象徴的である。
 
 本書は、こうしたヨーロッパ近代科学の社会化の歴史、特に中世後期から20世紀前半までの動きに焦点を当てられている。近代科学はいかにして世俗化・大衆化・制度化・職業化・専門文化・技術化・産業化・ナショナル化・軍事化・巨大化の道をたどったか。またどのような影響を社会に及ぼし、現代科学文明がもつ社会的基盤がどのように形成されたのかを見ていく。
 
 今日あるような科学の社会的相貌は、決して予定調和的にできあがったものではない。そこに至るまでの道筋には、国や時代によって違う文脈が存在した。共通して言えることは、科学の実践者自身による、科学の営みを社会的に認知させるための様々な主張や訴えが果たしてきた役割は、科学の社会化・制度化において大きいということである。そこに存在するさまざまな科学の理念やイデオロギーは、その時代の社会や文化の状況が刻印されたものと見なされ、現実につくられる教育や研究の制度の性格を規定してきた。制度というものは、いったん確立されると、個々の成員の意志から独立して集団の態度や行動を規定し固定化する特徴を持つ。それゆえ、制度が以後の科学の性格や方向に与える影響は大きい。さまざまなプロセスを経ながらも、ヨーロッパ科学の目的と性格は大局的には共通の方向に向かっていた。その背景には経済競争や戦争があり、それらが科学の社会的相貌の画一化を促したことは疑いの余地がない。科学の制度化の変遷の様相を理解することにより、われわれの生きる現代の特異性と歴史とのつながりが浮かび上がってくる。
 
 20世紀の科学技術には、われわれの社会生活を豊かにする光の面と、われわれ人類を脅威にさらす影の面の両方をもっている。近年、特にこうした影の側面が深刻化するにつれて、現代科学技術は危殆に瀕しているという感が強まっている。こうした問題点の所在を探り、これからの科学技術のあり方を考える上でも、歴史は何がしかの手掛かりを与えてくれる。

E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第3章 中国の錬金術

 

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

 

 

【第3章 中国の錬金術
 中国の錬金術は、西洋の錬金術と並行して営われていた。その発展の経路については、ジョンソン (Obed Simon Johnson)、デーヴィス (Tenney Lombard Davis)、ウー (Lu-Chiang Wu)、チェン(Chen Kou Fu 陳国符) の研究があり、とりわけダブス (Homer H. Dubs) の研究によって明らかになった。
 
 錬金術についての最も古い言及の一つに、紀元前144年に出された中国の皇帝の勅令がある。錬金術を法律で禁止しなければならなかった事実は、錬金術がそれ以前も営われていたことを示している。中国の資料によると、錬金術が最初に行われたのは、紀元前4世紀に活躍した名士の騶衍 (スウエン Tsou Yen) によるとされる。その後勅令によって錬金術が禁止されてからも、錬金術が止まることはなかった。勅令が出てからわずか11年後の紀元前133年に、ある錬金術師が武帝に迎えられることとなる。その錬金術師は、不老長寿の秘密を発見したと称していた。彼の言うところは、中国の錬金術における二つの特徴を示している。ひとつは、錬金術の主な目的が、不死あるいは長寿を確保するためであったことである。この時代の中国において商業は軽蔑されていたため、錬金術は寿命を延ばすという高貴な目的のために行われていた。もうひとつは、それを達成するためには、精霊あるいは二次的な神の助けが必要なことである。
 
 このような目的のもと、紀元前60年には劉向という若い学者が、漢の宣帝のために様々な実験を試みた。そのために、帝室の後援のもと莫大な金額がつぎこまれたが、結果は失敗に終わった。劉向は、紀元前144年の勅令に違反したとされて役人たちによって断罪され、死刑を宣告されたが、彼の能力を惜しんだ皇帝が働きかけたことで、刑は無効となった。このような大失敗が起きたにもかかわらず、錬金術の探求や錬金術への期待は、衰えることがなかった。その営みについて、様々な話が残っている。ダブスによって伝えられたものによると、錬金術を好んだ官人の程偉が錬金術における金づくりを試みる際、方士の家族から向かい入れた元召使の妻からの手助けをもって成功を収めたという話がある。妻はその秘訣を知っていたにもかかわらず最初から夫の金づくりを手伝わなかった理由として、夫に錬金術の実践をもって得られる金を手にいれる「天命」があるか見極めていたのだという。このことは、後世の錬金術師が想定した、ふさわしい占星術条件の存在を想起させる。また、妻が夫を手伝う際、ある薬品を添加したとされている。このことは、後に金の成功に不可欠となる賢者の石のはしりといえるだろう。また、『参同契(サンドウケイ)』の著者とされる、魏柏陽を名乗る人物に関する逸話も残っている。不老長寿を叶える錬金薬(エリクシール)を完成させた魏柏陽を名乗る人物は、自身で仮死状態を演じて弟子の忠誠を試し、師を信じてともに死んだ弟子のみを迎え入れて、不老不死となったという。初期の中国における錬金術についての知識は、4世紀頃に中国の南部で活躍した葛洪の著作からも得ることができる。その書物では、金の成功のためには化学的な操作以外のことも必要であるとされている。すなわち、長寿を得るためには禁欲的な規則を遵守する必要があり、術を行うにあたって必要な準備や人数、環境が決まっているとした。また、術の内容は書物からだけでは得られず、必ずその道に精通した人から直接教えを受けなければならないとした。さらに、しかるべき神礼拝する信仰も持ち合わせていなければならない。くわえて葛洪は、金属変成と錬金薬の調整について多くの処方を伝えている。彼は、錬金術によってつくられた完全に均一な金と、金に見せかけるために色づけされた卑金属は区別されなければならないと指摘している。また、寿命を延ばす薬には植物を材料にしたものもあるが、不死のためには金属と鉱物を材料にしてつくった霊薬(エリクシール)以外にはないとしている。
 
 中国の錬金術の理論的な背景には、道教の考え方がある。「道(タオ)」とは、宇宙が運行すべき道を意味する。道教は、事物の第一原因を、地球の周りの天の回転に求める信仰に基づいている。道教を遂行する「道士」は長寿を望み、その欲求は不死の希望へと向かった。その結果、道士たちは、錬金術の研究と実践を行うようになった。彼らの論には三つの主要な点がある。一つ目の点は、中国人が5という数字をきわめて重視していたことである。二つ目の点は、5という数字と1から9までの数字による魔方陣との関連性である。そして三つ目の点は、「陰・陽」の理論である。一つ目の点、5の数字が重視されたことには、あらゆるものを五つにくくって捉えていた事実との関連がある。すなわち、あらゆる事物の素は木・火・土・金属・水の五元素あるいは五行、空間は北・南・東・西・中央の五方位、色は黄・青・赤・白・黒の五色、金属を金・銀・鉛・銅・鉄の五つにくくっていたということである。また、五元素、五方位、五色、五つの金属はそれぞれ関連させて考えられていた。また、これらの組み合わせは、惑星ともつなげて考えられていた*1
 
 この考え方は、中国の錬金術に見られる多くの理論や思想を理解する上でおさえるべき根本的考え方であり、後の時代に錬金術において対応関係が用いられることになる先駆けであった。二つ目の点、51から9の数字による魔方陣との関連性については、ステイプルト (Henry Ernest Stapletom) が研究している。彼は、その魔方陣が「明堂」すなわち「聖堂」の基本的な設計をなしていると指摘している。明堂は、正方形のお堂で、9つの部屋に魔方陣の数字の配列に沿って番号がわりふられている。そのお堂は、主に法令の布告のために用いられ、特に年によって変動する中国の暦を調整のための宣言に使われていた。この明堂は魔方陣の起源といえ、その設計は錬金術にとっても重要なものであった。国を司る天子は、明堂にいるときにおいては神の化身であると信じられおり、質を支配する力をもつとされていた。この明堂の基本的な設計をなした魔方陣を護符として用いることで、不老不死や金属変成を達成させるための錬金薬(エリクシル)の製造のために、この天子の力をいくらか分け与えられようとしたのである。こうした製造の過程にもやはり5という数字が関連し、材料の加熱を5回ないし5の倍数行わなければならないとされた。三つ目の点「陰・陽」の理論は、明堂が現れてから数世紀後の紀元前6世紀頃に登場した概念である。これは、宇宙の始原物資から生まれた正反対の原理、すなわち「陰」と「陽」の対立原理の概念である。「陰」は、女性的、水性の、重い、受動的、土的で、太陽と結びつくものであり、「陽」は、男性的、火的な、軽い、能動的で、月と結びつくものとされた。この二つの原理による相互作用によって、この世界を構成する五つの元素が形成されるとした。この考え方を錬金術へ拡張させ、「陽」を金などの生命や長寿をもたらす力をもつ物質と結びつけて考えられた。しかし、「陰」については受動的とされることから、特に錬金術と結びつけて考えられることはなかったとされている。
 
 中国の錬金術と、イスラムやヨーロッパの錬金術との関係については、盛んに議論が行われている。中国の錬金術の知識が、ペルシア、メソポタミア、アラビア、エジプトの錬金術師たちに影響を与えたと考えられる一方で、その逆の流れをもって影響が与えられたとも考えられている。錬金術の知識が中国から西洋へ流れた説を考えるとき、初期のアレクサンドリア錬金術師たちの周りには冶金術や試金術についてよく知る人々が多くいたため、自分の作ったものを金と主張できずに金の模造品をつくる試みにとどまったという事実が、根拠とされる。それに対して、中国では金は極めてめずらしいものであったため、錬金術師のつくった金が本物として通用する可能性は、アレクサンドリアよりもずっと高かった。よって、金属変成の理論が、中国において盛んに研究されたのではと推測される。また、中国とアレクサンドリアとの間では、盛んに貿易が行われていた。これらのことから、金属変成の考え方は、中国人によって西洋に持ち込まれたと考えられるのである。また、逆の流れを考える上でも、説得に足る論証がある。ひとつは、中国人が金属変成の理論をアレクサンドリアに持ち込んだ場合、同時に不老不死についても言及されることは必至であろうという点である。また、アレクサンドリアにおいて冶金の知識水準が高くとも、その事実は金属変成の可能性を受け入れられなかった理由としては、不十分だと言える点である。これらのことから、錬金術の知識が、中国から西洋に流れたとも、その逆の流れがあったともいえず、実際には同時に並行して金属変成の可能性の発見とその探求がなされたと考えることもできる。その裏づけとして、中国では不老不死に、西洋では金の獲得にそれぞれ重点がおかれていたことがあげられる。中国とアレクサンドリアとの間、またそれらとイスラムとの間で知識と情報の交換があったことは確かである。しかし、それが必ずしも錬金術的な知識の交流を示しているとは、いえないのである。いずれにしても、この論を展開するにあたっては、より多くのデータが必要といえる。
 
 アレクサンドリアをはじめとする東地中海沿岸諸国で錬金術が急速に発展し始める頃、中国では錬金術が衰退し始めた。1000年までには錬金術の実際的な探求は放棄され、錬金術の語彙や用語は、精神的・神秘的な学問体系に採り入れられた。こうした展開は、すでに西洋でも始まっていたものであった。一方で、中国において不死への希求はいっそう高まり、錬金術的な思考はその骨組みとして形だけ残ることとなる。

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E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第2章 ギリシアの錬金術師

 

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

 

 

【第2章 ギリシアの錬金術師】
 錬金術の発展は、主にヘレニズム時代のエジプト、特にアレクサンドリアナイル川のデルタ地帯等の諸都市で始まった。アレクサンドリアとは、紀元前322年に設立された古代世界において最大の重要な都市をさす。そこは、学者たちがギリシア世界のいたるところから海を渡って引き寄せられ、大学の一種であるムセイオンが彼らを収容するためにつくられた。そこは、文法、文芸評論、文献学、天文学占星術、医学すべての分野に学識豊かな師と熱心な弟子がおり、活発に学問が営われた。すなわち、エウクレイデス(ユークリッド)によって数学の学派が開かれ、その弟子のアルキメデスは今日誰もが知る「アルキメデスの原理」を導き出した。他にも、1000以上の星の目録をつくったヒッパルコス、地球の周囲を測定したエラトステネス、円錐の切断について論文をかいたペルゲのアポロニオスがいた。こうした知的な活動は、アレクサンドリアの港での活発な貿易による外国との接触から刺激を受けていた。

 ナイル川のデルタ地帯における諸都市でも、学問は栄えた。その諸都市の一つであるメンデスにおいて、ボーロス・デモクリトスは著書『フィジカ』を書いた。ボーロスは、職人のメモや実際の知見をもとに、金づくり、銀づくり、宝石づくり、紫色づくりについてこの書物に記した。このボーロス・デモクリトスは、今日ギリシアの哲学者で原子論を唱えたとして知られるデモクリトスとは別の人物である。ボーロスをはじめとする初期の錬金術師たちの目標は、卑金属を金に似せる方法を見つけることであった。彼らにとって色こそ最も大切な金属の性質であったため、ギリシアの錬金術文献では主に色の変化やその順序についてが扱われた。このことは、後の錬金術に影響を残した。その思想的背景には、あらゆる物質に含まれる「第一質料(プリマ・マテリア)を得ることで、完全な金をつくることができるという考えがあった。よって、彼らの根本的な目標とは、この第一質料を得ることであった。そのための試みは様々になされたが、特に卑金属の融解または卑金属とその他の物質を加えて融解することによって得られる黒色の固体が、第一質料の候補として有力であった。そしてその固体はその後、色の変化を経て完成するとされた。その過程は錬金術師によって説かれる順序が異なるが、基本的に、黒、白、玉虫色、黄色、紫を経て赤にたどり着くとされた。

 ボーロス以後、こうした初期の錬金術の営みやその理論化は絶えず続けられたが、その記録はほとんど残っていない。記録としては、エジプトのテーベの墓から見つかり、紀元後300年頃ものもと思われる「ライデン・パピルス」および「ストックホルムパピルス」があるが、錬金術が紀元前後の数世紀に行われていた確証としては不十分であるとされる。いっそう確かな証拠としては、紀元後300年頃にエジプトのパノポリス(アフミム)のゾシモスが書いたとされる錬金術についての百科事典があげられる。ゾシモス自身のテクストも含まれているが、その大部分はゾシモス以前のテクストをまとめたものとなっている。ゾシモスの著作から分かることは、ボーロス・デモクリトスが『フィジカ』を書いた後の時代には、錬金術思弁が多種多彩に展開されたことである。その中では、エジプト魔術、ギリシア哲学、グノーシス主義、新プラトン主義、バビロニア占星術キリスト教神学、異教の神話らが登場し、謎めいた暗示的な言葉をもって錬金術文献の解釈を困難かつ不明確にさせている。くわえて錬金術師たちは、漠然とした自説を権威づけるために、自分の名ではなく初期の哲学者や有名人の名を自身の論文に冠した。また、ある典拠の裏付けが必要になると、それらに錬金術解釈を与えて用いた。それらの行いにおいては、聖書の「雅歌」でさえ、隠された言葉で書かれた錬金術書であるとされた。残存しているゾシモスの書は、1887年から88年かけて、ペルトロ (Pierre Eugene Marcellin Berthelot) とルエル (E.C. Rouelle) によってフランス語訳とともに出版された。またゾシモスによると、が生きていた当時エジプトでは化学的技芸は王室と神官の監督のもとに行われ、それについての書物を出版することは非合法であった。ただボーロスだけが、この規則を犯したとされている。その神官たちは、化学的技芸の秘密を神殿やピラミッドの壁に象形文字で刻み、彼ら以外にはわからないようにしていた。しかしながらユダヤ人たちはその秘密を教えられ、後に他の人々に伝えたとされている。錬金術の百科事典を記したゾシモスは、金属や鉱物の化学的操作についてかなり経験をつんでいた証拠を各所に記している。しかし、こうした今日に通る化学的な知識は、錬金術を権威づけるものであるとも捉らえるものである。
 
 ゾシモス以後、ギリシアの錬金術書には、象徴や寓意がいっそう用いられるようになる。ゾシモスに続く有名なギリシアの錬金術師に、哲学者で数学者、天文学者でもあったアレクサンドリアのステファノスがいる。彼が活躍した7世紀は、ビザンツ皇帝ヘラクレイオス一世の治世であった。ヘラクレイオスは、学問の啓蒙的保護者であり錬金術に深い関心をもっていたため、ステファノスを寵愛した。ステファノによる錬金術の主著では、7世紀の錬金術の理論が十分に説明されている。このギリシア語のテクストは、テイラー (Frank Sherwood Taylor) によって研究と英語訳がなされた。テイラーは、ステファノスの著作に錬金術の実際的な操作は疲労という重荷に過ぎないとの言明があることなどから、ステファノスは実際的な実験を行っていたのではなく、錬金術を精神的過程とみなしていたのだと述べている。このことから、ステファノスの頃には錬金術が、修辞的、詩的、宗教的な作品のテーマとなってしまい、金属変成が人間の高貴な霊的状態への変成と再生の象徴として用いられるようになったことが分かる。このような状態は、ステファノスによって強められ、後期ギリシア錬金術の特徴となった。それは、715年頃に書かれたアルケラオスの著作からも分かる。また、テオフラストス、ヒエロテオス、ヘリオドロスの錬金術詩からもみてとれ、それらは全てステファノスやアルケラオスの様式に従っている。後期ギリシア錬金術書の特色を表す言葉として、ある言葉があげられる。その言葉は「蟹文字」として知られる 象形文字でゾシモスのものとされる著作の一つに記されていた、謎めいた符号のようなものである。その意味するところは、「理解するもの、そは祝福されん」というものであった。
 

E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第1章 序論

 

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

 

 【第1章 序論】

 錬金術はキリスト誕生以前にすでに行われていた。その地理的範囲は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツといった西洋にとどまらず、モッロコや中国など、東洋にも及んだ。錬金術の最盛期は、およそ紀元前800年頃から17世紀半ばまでである。*1それに従事した者は、上は王など一国のトップ、下は下級僧侶や教会書記、職人にまで広がっていた。また、ロジャー・ベイコン、トマス・アクィナス、トマス・ブラウン、ジン・イーブリン、アイザック・ニュートンといった著名人さえ錬金術に深い関心を持ち、ウィリアム・シェイクスピアジェフリー・チョーサーの作品の中では錬金術が取り上げられた箇所がある。

 長い伝統をもち、様々な人々の興味をひきつけてきた錬金術の本性には、二つの面がある。ひとつは表向きの面で、非金属を貴金属に変える力をもつとされる「賢者の石」をつくることである。もう一つは隠された面で、この石づくりや石の持つ力を、神の恩寵や信仰と結びつけて考えられるようになったことから、金属変成を罪深い人間が完全な人間になる過程のシンボルとして扱った。この二つの面は、分けがたく混ざり合っている。石づくりのことについて述べていても、実際の物質に対しては関心がない場合もあり、その意図は神学的、哲学的、神秘的な信条や熱望を述べることであった。本書では、主に表向きの面である実際的な石づくりについて扱われているが、隠された面である秘教的な錬金術も念頭におかなければ、石づくりの正しい理解はできない。

 錬金術の二面性の他に考慮しなければならないのは、錬金術師の仕事の成功は彼らの生命に危険がおよぶことを意味する点である。成功したのではと疑われることさえも、十分に危険なことであった。また、たとえ王室の後ろ盾と許可を得て仕事をしていても、その危険性に変わりはなかった。したがって錬金術師は、身の安全のために、また、仕事によって得られた貴重な知識をほかにもらさらないために、自分の仕事について記述する際、寓意や比喩、ほのめかしや類比に満ちた言葉使いを用いた。そのため、必ずしも書かれているままを意味しているとは限らない。

 錬金術師が、その探求によって多大な危険が及ぶと知りながらも追い求めた「賢者の石」について、17世紀に匿名の著者によって書かれた著書『(水性の)賢者の石』に詳しく見ることができる。すなわち賢者の石とは、大昔の、秘密の、理解を超えた、神聖な、祝福された、三位一体の万能な石である。また、その石の材料は鉱物である。それを粉末にし、さらに三つの元素に分解し、それら元素を再結合させることで、蝋のような溶融性のある固い石になる。しかし、このような概略で示されるほど、実際の石の製造は簡単ではない。まず、原料から不純なものを全て取り除かなければならない。その操作に用いられる「太陽の水」として知られる水性の液体は、肉体と霊魂と精霊のエキスを蒸留したものに、今日連想されるであろうものとは別の固有の塩を加えて凝縮させる必要がある。また、石づくりの最中は、温度と色の変化や正しい過程を踏んでいるかに細心の注意を払い続ける必要があり、何かあれば即座に対処することができなければ、成功することはない。著者は、このようにして調製された賢者の石によって、あらゆる現世的な幸福、肉体的な健康、物質的な富がもたらされることを読者に想起させることで、この『賢者の石』の書を閉じている。すなわち、賢者の石のおかげでノアは箱舟をつくり、モーゼは金製の器と幕屋をつくり、ソロモンは聖殿と多くの装飾品をつくり、くわえて自身に長寿と無限の富をもたらしたのである。

 錬金術を意味する英語のアルケミー(alchemy)という語は、アラビア語で技芸を意味するアルキミア(alkimia)に由来する。「アル(al)」は定冠詞だが、キミア(kimia)の語源については諸説ある。一説によると、古代にエジプトを指す呼び名であったケム(kmtまたはchem)が由来であるとされている。錬金術は、初期の頃はエジプトで盛んに行われていたし、この説に沿うとアルケミー(alchemy)は「エジプト人の技芸」という意味になることからも一貫性があるといえる。しかし、古代の文献ではケムと錬金術の結びつきが全くないため、この説は否定される。キミア(kimia)の語源について有力な説は、ギリシア語で金属の溶融、鋳造を意味するキマ(chyma)に由来する説である。実際に錬金術は、多くの場合これらの操作に関わっていることからも、いっそう確からしい。それらの真実がどうであれ、ここまで言及してきたアルケミー(alchemy)や近代的な形であるケミストリー(chemistry)がアラビア語由来であることは確かであり、そのことは中世初期においてこの技芸の主要な担い手がイスラム教徒であったことを暗示している。

 錬金術語源はアラビアにあったが、その実際の営みの起源は人間の生活様式の変革からみてとれる。共同体をつくり、余剰収穫物ができたことで専門化した職人を雇うことができるようになり、おそくとも紀元前3000年までには様々な工芸が確立した。錬金術が明確な形で現れたのは紀元前数世紀だが*2
、その土台となる技術的な知識は錬金術登場以前から着実に重ねられており、その古代の職人たちの仕事は決して凌駕されることがないほど偉大であった。彼ら職人たちの仕事には、宗教的、魔術的な行為が伴っている。すなわち、金属、鉱物、植物、惑星、月と太陽、神々との間には関連があるとされ、特に天と地とを照応させる占星術体系は重要であると考えられた。錬金術師たちは、彼らから受け継いだ仕事とともに占星術の重要性もまた受け入れていた。占星術では、マクロコスモスすなわち宇宙と、ミクロコスモスすなわち人間との調和が強調され、宇宙での出来事は人間へ影響を与えるとされた。それは人間自体に関連されるだけでなく、薬や合金の調整を行うための好条件を見つけるためにも使われた。占星術において天宮図をつくる計算のために数秘術が現れ、ピュタゴラスが発展させた*3錬金術書の中でしばしば数秘術が見られることからも、占星術錬金術の関連がみてとれる。また、紀元前4世紀頃のギリシア人は、上記で述べてきた古代メソポタミアにおいてと同様に、占星術が宇宙でのすべてのできごとと関連があると考えていた。宇宙でおこるできごとの探求は、占星術以外でも進められて発展した。プラトンアリストテレスは、それらの思想的探求を体系としてまとめ、後の西洋文明に根本的な影響を与えることとなる。

 アリストテレスの物質の構造についての見解は、錬金術の表向きの面、すなわち賢者の石の理論的背景の大部分をつくっている。すなわち、あらゆる物質は、火・気・ 木・土の「四元素」から構成されているとした。さらに各元素は、各々対応する湿・乾・熱・冷の四つの質を通して、他のどの元素にも変成が可能であるとされた。したがって、どんな物質もそれを正しく処理し、その元素比を他の物質の元素比に合わせるように変えることで、どんな物質にも変成が可能となるのである。ここに金属変成理論の始点があり、錬金術師たちが途方もない仕事を行うそもそもの哲学的な裏付けがある。また、錬金術師たちの根本的な考えである「一は全、全は一」という宇宙観もまた、アリストテレス宇宙論に基づいている。くわえてアリストテレスは、金属や鉱物の生成について見解を述べており、それが錬金術師の思考を方向づける助けとなった。すなわち、アリストテレスは、互いに関係し合い、物質的とも精霊的ともつかない二つの「蒸発物」があると考えた。一方は霧状で金属に対応し、もう一方は煙状で鉱物に対応している。どちらの蒸発物もすべての物質と同じく四元素から成っているため、変成は可能であると考えられた。
 
 錬金術師の根本的な考えである、「一は全、全は一」であり、万有の精霊が浸透する「世界統一理論」には、宇宙におけるすべての物体が生命をもつという仮説が含まれている。それによると、金属も鉱物も成長し、性別が割り当てられるとされた。すなわち、金の種子に養分を与えると金塊に成長するのである。また、煙状蒸発物は男性で霧状蒸発物は女性であり、水銀は金属の胚が着床する子宮であった。このような理論とより合理的なアリストテレスの見解は分けられていたのではなく、むしろ混ざり合って体系をなしていたということも、錬金術の営みを理解する上で欠かすことのできない重要な点である。
 

*1: 今日の研究では、紀元後二世紀より前には遡らないだろうといわれている。

*2:紀元前というのは、今日の見地からは間違い。

*3:今日の知見から鑑みれば、注意が必要。