BHセミナー「『科学革命』を読む」第5回レジメ

 

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

 Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p91-p

 

【第5章 ミクロコスモスと生き物の世界】
初期近代の思想家たちの注目を集めたのは、月の上の世界と月の下の世界だけではありませんでした。第三の世界は、人体というミクロコスモスです。
 人体の構造や機能、その健康の維持を探求し実践する医学は、初期近代の社会において、法学と神学に並んで重要視されていました。16世紀、その教えは、古代ギリシアヒポクラテス古代ローマのガレノスを核とし、中世アラビアのイブン・シーナー(もしくはアヴィセンナ)とラテン世界の知識が蓄積されたものでした。すなわち、「体液説」に沿っていたのです。体液説は、血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の4つの体液とその混合である「気質」のバランスを保つことで、人体の健康が維持されるという考えです。4つの体液は、アリストテレスの4元素に対応していると考えられていました。また、人体というミクロコスモスは、天界というマクロコスモスの影響を受けているとされました。したがって、惑星の位置を特定する占星術は、医学において重要な役割を担っていたのです。医者の役割は、患者各々の独自の体液比率、すなわち「体質」を占星術による出生天宮図から把握し、患者本来の体液バランスに回復させるよう援助することでした。その診断のために、惑星の位置を知るだけでなく、患者の尿を調べたり脈を計ったりしました。このような方法は、免許をもつ医者のあいだでは科学革命期後の18世紀まで、劇的に変化することはありませんでした。その一因として、医学校や医者のギルドが保守的であったことがあげられます。医療における革新は外部から、すなわち、当時大都市以外のほとんどの地域で医療を担っていた無免許の医者、「経験医」たちによって引き起こされます。経験医たちは、その治療が成功するか否かに報酬の有無がかかっていました。そのため、パラケルススやファン・ヘルモントなどの新しいキミア的医学のアプローチを積極的に採用していきます。この動きは、ゆっくりと正規の薬局や医療機関に取り入れられていきました。伝統的な医療と対立することとなったキミア的医療は、論争を繰り広げながらも着実に結果をもたらし、認められていきました。
 人体というミクロコスモスを探求する営みは、解剖学においても行われ、初期近代に大きな発展をとげました。人体の解剖は、古代より重要性が説かれていながら、当時の社会的・倫理的な問題により、実行することがほとんどできていませんでした。しかし後期中世にはいると、イタリアの医学校において一般的なこととなります。関心の高まる人体解剖学の知識を広く普及させた書物として、アンドレアス・ヴェザリウスの『人体の構造について』があります。多くの人体解剖を行ったヴェザリウスは、豊富な挿絵とともに人体の特徴や構造をきわめて詳しく説明しました。
 解剖は、人体に限れられていたわけではありませんでした。17世紀に入ると、パリ王立アカデミーでは、ダチョウやライオンなど様々な動物を解剖しました。ロンドン王立協会では、生きたままイヌの解剖を行っただけでなく、様々な液体をイヌの体内に注入し、その動きを観察しました。このような体液や血液の運動への関心は、ウィリアム・ハーヴィの血液循環についての議論に、部分的に由来します。ガレノスによる医学の伝統的な考え方では、動脈と静脈は分離しているものと考えられ、血液が心臓にもどることはないとされていました。ハーヴィは、解剖と観察の結果、血液は体内を大きく循環し、心臓がその中心的な役割を担っていると結論づけます。これは、アリストテレスが最も完全なものとみなしたマクロコスモスの天が行う円運動を、ミクロコスモスの人体がまねていると解釈できたため、ハーヴィは自分が導いた結論をより確信しました。ここに、科学革命期においてアリストテレスが重要であり続けた一例を見てとることができます。
 動脈と静脈をつなぐ毛細血管の存在は、マルチェロマルピーギによって発見されました。彼がこの発見のために用いた道具が、当時比較的新しい発明品であった顕微鏡です。顕微鏡は、望遠鏡と同様に新しい世界を明らかにしていきました。様々な人によって途方もなくい多くのものが顕微鏡で観察されただけでなく、顕微鏡自体の改良も進められていきました。その中で得た発見の一つに、服地商で測量技師のアントニー・ファン・レーウェンフークの精子の発見があります、これは、動植物の発生について、論争を引き起こすこととなりました。すなわち、前成説と後成説の対立についてです。前成説は、人がその形を成す経緯として、精子あるいは卵の中に子どもの小型版が含まれているという考えです。対して後成説では、胎児は母親が妊娠している最中に段階を追って形成されていくと考えられます。この後成説は、特に機械論哲学者に歓迎されました。顕微鏡は、生体に機械論的な構造が存在することを明らかにしました。そのため、17世紀後期の顕微鏡による実験は、ほとんど機械論者たちによって行われます。一方で、顕微鏡による精子の発見は、前成説に有利な解釈をもたらしただけでなく、生体の複雑な構成を明らかにしたため、後成説や生体についての機械論的な説明が不十分なようにも見えました。このように、顕微鏡による観察は、矛盾する解釈が可能だったのです。この対立する考え方が同時に繁栄する動きは、17世紀において非生物と生物の区別が明確でないことや、機械論的な体系と生体論的な体系が混在したことにおいても見てとれます。その背景としてあるのは、アリストテレスの霊魂の概念です。科学革命期当時の人々は、生体の機能や構造は機械論的に説明でき、生体の組織化や維持は霊魂によって行われるという思考的基盤を共有していたのです。
 17世紀に登場した最も包括的で新しい医学は、貴族で医師、キミストで自然哲学者である、ヤン・バプティスタ・ファン・ヘルモントによって体系づけられました。ファン・ヘルモントは、アリストテレス 的な四元素やパラケルスス的な三原質を否定し、水こそがすべての基本元素であると主張しました。そしてそれを、実験と観察によって確かめます。そのひとつにヤナギの苗木を使ったものがあります。5年間ヤナギの苗木に水を与え続けたもので、その結果、ヤナギの木の重さは増加しましたが、土の重さはほとんど減ることがありませんでした。そのことから、ファン・ヘルモントは、木の全体の構成は水だけからつくられたと結論づけたのです。水をあらゆる物質に変換するものは、「セミナ」(種子)であると彼は考えました。種子は、あらゆるものを組織化する非物質的なものと説明します。この種子は、火と腐敗によって破壊されて空気のような物質に変化します。彼はこれを、カオスという語に由来して「ガス」と呼びました。このガスが大気の寒冷な部分で水へと変換し、雨となって落下することで、自然界でも水があらゆるものに変化し循環するのだと説明します。水がすべての、ただひとつの元素であるとしたファン・ヘルモントは、身体は基本的に化学的に営まれていると考え、体液特に尿の分析を行います。化学的な営みが行われている身体で、その機能を調整し支配するものは、準霊魂的な実体である「アルケウス」によって行われると説明されました。よって医療とは、アルケウスを強化することであったのです。ファン・ヘルモントの説明では、病気になるのは体液の不均衡のせいではなく、病気の「種子」が体内に侵入し、身体を変質させるからなのでした。また、精神や情緒の状態が、体内の物理的変化を引き起こすと主張します。このようなヘルモント的な思想は、医者や生理学者、キミストに深く影響を与えます。医学にとって化学が重要であることを主張する者が現れ、医学教育が改革され、18世紀に起こる医学の重要な変化の基盤を構成することとなったのです。
 植物と動物の研究は、16・17世紀に著しく拡大しました。そのテクストは、百科事典の形をとっていました。動植物に関する百科事典の説明は、様々な種についての詳しい記述と、古代以来蓄積されてきた動植物にまつわるおびただしい量の文学的・語源的・聖書的・道徳的・神話的、そして比喩的な意味が混ぜ合わされたものでした。つまり、当時の動植物に関する説明は、文字通りであると同時に象徴的メッセージの含まれたものだったのです。よって、一角獣や竜など架空の動物についての記述は、当時の人々がその存在を信じていたためでなく、その意味するところに重要性があったのです。このような伝統的な記述方法は、転換期を迎えることとなります。科学革命期に発展した医学と航海術によって得た膨大な量の知識を古代からの知識と照らし合わせて編纂する際、古代から初期近代へ橋渡し、または新たなカテゴリーを創出する必要がでてきたのです。よって、寓意に満ちた伝統的な百科事典の説明は、写実的な説明へと転換することとなります。航海術の発展による新世界との出会いは、新薬の探索と新しい植物の研究を促しました。その結果、ヨーロッパ各所の医学校に付属の植物園が設立されます。めずらしい植物に対する関心は、医学校内にとどまらず個人にまで広がり、異国風なものや希少なものを収集して各々の陳列室へ収容しました。これは、博物館の先駆けであり、また、収集家たちの富や権力、関心を展示しているだけでなく、自然物と人工物への人々の関心を引き立たせました。陳列室に収容された事物の実際の配置には、事物同士の結びつきを見てとることができました。人間と自然の営みが連結され、圧縮されたこの空間は、まさにもう一つのミクロコスモスであったのです。

BHセミナー「『科学革命』を読む」第4回レジメ

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p67-p90


【第四章 月の下の世界】

 初期近代の人々は、地球や四元素、変化と運動の過程を再検討し、事物の意味を理解することを目指して、一連の体系を定式化しました。それは、あるひとつの世界観を徐々に作り上げていったというものではなく、様々な世界観が各々認められようと競い合う様相を呈していたのです。しかし、共通点はありました。それは、いずれもアリストテレス的世界観の影響を受けていることです。ある者はそれにとって代ろうとし、またある者はそれを洗練しようと試みました。
 初期近代の自然哲学者たちが、地球の歴史について、聖書にしるされている年代よりも過去にさかのぼれるという見識をもつのは、解剖学で台頭したニコラウス・ステノのよる発見がきっかけでした。ステノは、泥が沈積して地層をなしており、それを分析すれば地球の変化の歴史を読み解けると結論づけたのです。17世紀の終わり頃には、何人かの著述家がステノの研究をもとにして、地球のたどってきた歴史や地球の外観を説明しようと試みました。地表の変化については、イエズス会士のアタナシウス・キルヒャーによって、じかに研究されることとなります。キルヒャーが火山の噴火をよく観察した結果、噴出する火と溶岩の量が火山内部でつくられているには多すぎることに気づき、火山の地中深くに巨大な火を収めた複雑な内部構造があると結論づけます。この地下構造は、海流をも説明しました。キルヒャーは世界中のイエズス会宣教師たちの報告を主とした多くの情報からデータを集め、百科事典的著書『地下世界』を、ふんだんな世界地図とともに編纂しました。
 地球の目に見える変化を観察したキルヒャーとは対照的に、エリザベス1世の侍医であったウィリアム・ギルバートは、地球の目に見えない変化、すなわち磁石の働きについて明らかにするため、実験を行いました。ギルバートは、球形磁石の上に置いた鉄の針が、地球の上にある羅針盤の針の振る舞いと同じことを発見し、地球が巨大な磁石であると結論づけ、球形磁石を地球のモデルと見立てて実験をし、物体がなぜ落下するのかを説明しようとしました。
 それに対して、どのように物体が落下するのかを数学的に説明しようとしたのが、ガリレオです。ガリレオのアプローチは、技術者的であると言えます。その背景には、実生活に役立つ知としての科学が求められていたことがありました。その一つであった給水設備のための研究の中で、ガリレオの信奉者たちによって「真空」が発見されます。彼らは、真空はあり得ないと主張するアリストテレス主義者たちと対立することとなりました。真空はあるとする者たちは、実験でそれを証明しようとしました。その実験は、近代科学の祖とされるロバート・ボイルも行っていました。ボイルは実験の中で、火と空気の関係性を発見します。
 火については、初期近代よりずっと以前から人々の間で議論されてきました。その中に、錬金術師たちがいます。彼らは、火を物質とその変換を研究し制御するための第一の道具として用いていました。科学革命期は、錬金術の黄金時代でした。その時代、錬金術と化学は、今日のように分けて考えらえておらず、同じ探求であったのです。このような捉え方を、現代の歴史家は「キミストリー」すなわち「キミア」という語を用いて表します。錬金術という語から連想されるように、今日では錬金術師の仕事は金作りと思われがちですが、それは正確ではありません。錬金術師たちの仕事は、物質を完全にすることにありました。そのためには、物質のなかの成分を正しい配分に変成する必要があり、その調整に必要な媒介物質を、彼らは「賢者の石」と呼びました。錬金術が今日、化学と切り離されて考えられがちな一因として、錬金術師たちの文書が、隠喩やみせかけの名称にあふれていることが挙げられます。彼らは、知識をそれにふさわしくない人々には漏らすべきではないと考えていたため、あえて分かりにくい表現を採用していました。このことは、所有権を企業秘密として保護する必要のあった職人の慣行に、部分的に根ざしています。
 「物質を完全にする」ことは、人体にもあてはめられました。そのことから錬金術は、医学へも応用されます。その実践者の一人であったパラケルススは、医薬品づくりにとどまらず、人体と宇宙とを呼応させた世界観を提示します。世界の創造主たる神とはプラトン主義者のいう幾何学者ではなく錬金術師であるととらえた彼の論は、キリスト教的世界観とよくなじむものであったことも一因して、多くの信奉者を引きつけました。しかしながら錬金術分野は、商業や職人的分野と密接な結びつきをもったために古典としての正統性を誇れず、大学の学問として確立することができなかったため、主に大学の外で研究されていくこととなります。
 錬金術は、17世紀の最も重要な動きの一つであった原子論の再登場にも関与しました。13世紀に、偉大な錬金術師の名として知られるゲーベルが、物質が粒子の結びつきでできていると説明したことに起因します。原子論は、フランスのピエール・ガッサンディによってキリスト教化され、機械論と結びついて復権しました。これは、アリストテレス的世界観に反するものでした。しかし、多様で複雑な自然の営みと説明しきれなかったために、機械論は17世紀の終わりまでに衰退することとなります。
 科学革命期においてアリストテレス主義は、自然哲学者たちの探求の出発点となったと同時に、新しい世界観に批判され、取って代わろうとされたり、組み替えられようとされたり、洗練されたりしました。そのような多様な視点からのアプローチがなされたことが、16・17世紀を革命期たらしめている一因と言えます

BHセミナー「『科学革命』を読む」第3回レジメ

 

Very Short Introductions: Scientific Revolution No.266

Very Short Introductions: Scientific Revolution No.266

  • 作者: Lawrence M. Principe
  • 出版社/メーカー: Oxford University Press (Japan) Ltd.
  • 発売日: 2011/05/19
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科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p39-p66

 

【第三章 月より上の世界】

科学革命の起きた1500年頃の知識人にとって、宇宙は月の下と月の上の二つにわかれていました。これはアリストテレスによって設けられたもので、月の下、すなわち地上は変化のたえない領域であり、月の上、すなわち天空は不変の領域であるとされました。このうち月の上の構造についての学問、すなわち天文学が、科学革命の主要な分野を担うことになります。

 天体の動きを物理的・数学的に説明するために、古代のギリシアの人々は星々の観察を始めました。比較的遅く運動する星を「恒星」と名づけ、それに対してよく動くように見える星を「惑星」と名付けました。それらの運動は黄道帯という狭い帯状の領域に限定されています。さらにその黄道帯を十二等分し、ひとつひとつに宮を割り当てました。

 このような天体の動きに関して、プラトンは、数学的法則によって動いていると考えていました。また、プラトンの弟子のエウドクソスは、地球を中心とした同心天球で組み立てられた、数学的な宇宙モデルを提案しました。しかしこのモデルは、観察されたものを正確に説明できないという難点がありました。惑星の明るさが変わることを、説明できなかったのです。この問題は、プトレマイオスの「周転円」のモデルにて説明されました。このことによって、地球の位置は天体の中心から端へ移ることになります。このプトレマイオスのモデルは数学的説明はなされましたが、重い物体は宇宙の中心へ落下するというアリストテレスの自然学との間に矛盾が生じることとなりました。中心にない地球は、中心へ動いているはずなのに、実際にはそうではなかったからです。この食い違いの折衷案を示したのが、イブン=アル・ハイサムでした。彼のモデルでは、中心に地球があったからです。しかしながらこのモデルにも問題点がありました。それらの問題点は中世ヨーロッパの天文学者達へ継承されていき、自然学的に満足のいく説明がなされるよう洗練されていきました。

 それまでと一転した案を提示したのが、コペルニクスでした。彼は、地球ではなく太陽を中心にすえたのです。このモデルは、地球を中心とするモデルよりも観測データに適合しないばかりか、自然学的にみても納得させるものでもありませんでした。そして最も問題だったのが、動く地球というのが自然学的にも、当時の常識にも、また聖書とも相反するものだった点です。しかしコペルニクス自身は、観測により証拠がなくても、この説が正しいと確信していました。人文主義者である彼は、プラトンより後の世につけられた付加物をとりのぞいた、より調和のとれたモデルが真の宇宙の姿であると考えていたのです。このコペルニクスの宇宙モデルは、天文学者にとって、真実でないにしても価値のあるものでした。というのも、惑星の位置を決定するための計算は、太陽を中心としたモデルのほうが簡単だったためです。当時の多くの天文学者にとっての第一の関心ごとは、ある時刻にどこに惑星があるかということでした。地球が中心か太陽が中心かどちらが正しいかということは、確実に説明できるものではないと考えられていたのです。また、これら天文学者の研究の背景には、惑星の位置を精密に計算する必要のある占星術がありました。多くの天文学者は、占星術によって生計を立てていたのです。

 天文学が天体の位置を計算し、宇宙モデルの仮説を提示していくのに対し、占星術は天体が地球におよぼす効果を説明し、あらかじめそれを把握しようとします。この占星術の営みは、太陽の位置が季節をつくることや月の満ち欠けが人体に影響を与えることからもわかるように、自然のしくみに依拠した合理的なものです。占星術にはいくつかの分野がありました。次の年の天気を予言する「気象占星術」、治療において天体の人体への影響を考慮するため用いられた「医療占星術」、天体の新生児への影響を読み解く「出生占星術」などです。占星術は、その人特有の気質を示し、健康であったり危険な時期、あるいは物事をするのに都合の良い時期を予測することで、人が行動する上での判断材料とすることもまた目的としていました。

 コペルニクスより後、ティコ・ブラーエの新星・彗星の観測によって旧来の宇宙観が根拠をなくし、ケプラーによって古代からの円運動の固定概念がうすれ、望遠鏡を用いたガリレオの観測によって月より下の世界と月より上の世界の本質的区別がなくなり、ついにはニュートンが天体の運行とりんごの落下を全く同じ数学的法則によって記述することに成功しました。

 しかしニュートンは、天体の運行を説明するだけでは満足しませんでした。これらのしくみの原因を見つけたいと考えていたのです。なぜなら彼は、太古の昔にあった知こそが真実であり、それが年を経るにしたがって廃れてきてしまっているという「原始の知恵」という考え方を信じ、世界に隠されている神の意志を読み解くことが使命であると考えていたためです。このように、近代的科学者と言われている彼の思想的背景には、現代よりもより包括的な視点があったのです。

 

BHセミナー「『科学革命』を読む」第一回レジュメ

 

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

  

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

 Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p4-p20

 

 初期近代におこったとされる科学革命を知るには、その基盤となった中世とルネサンスについて知る必要があります。なぜなら、初期近代において新しいとされていた問いやそれに答えるための方法は、すでに中世にあったものだったからです。また、通常ルネサンスから連想されることは芸術や建築の類のものですが、それ以上に文学・詩歌・科学・工学・行政・神学・医学などの繁栄を築いたと言えます。このルネサンスがもたらしたもののうち、科学革命の基盤として特にあげられるのは、翻訳運動の広まりと大学制度です。また、科学革命期の生活環境的背景として、11世紀からの温暖な気候による豊富な食糧の確保、またそれによる人口増加と安定した社会システムが、学問と思索のための時間を生み出したことがあげられます。その後14世紀半ばに猛威をふるったペストによる人口の半減も、その当時の人々に大きな影響を与えました。本章では、このような時代に生きる人々の世界を根底から変えたものとして、「人文主義の隆起」「可動活字を用いた印刷術の発明」「新世界の発見」「キリスト教の改革」の4つを取り上げ、科学革命の基盤をなすものについて論じています。

 

 人文主義者たちは、自分たちは古代以降の暗黒時代を脱した新時代の住人であり、尊敬すべき古代人たちの成果を上回らなければならないという意識を共有していました。そのことから古代ギリシア語が復興し、プラトンプラトン主義者たちの文書の翻訳が進みました。人文主義者たちがたくさんの新しい文献を得たことにより、大学の内外に新しい流れを生み出しましたが、古代賛美が過剰なあまり、アラビアや中世への敬意を失い、それによってその知識さえも失い始めてしまうことになりました。

 

 1450年前後に可動活字による印刷術が発明され、より速く、正確な本を大量につくることができるようになりました。そしてそれは、人文主義者たちの文書への関心を高め、情報伝達のスピードを大幅にあげることになります。また、文字だけでなく図像の複製能力も以前とはくらべものにならないほど進歩しました。このことは、図像の発展へとつながっていきます。

 

 印刷術の発明とそれによる図像の発展は、新世界の情報伝達に大きく貢献しました。航海を経て持ち帰られた大量の情報は一気にヨーロッパ中へ拡散し、人々の持っていた旧来的世界観を更新していきました。そしてその大量に流れてきた情報は、旧来的自然観の再考をうながしました。また、さらなる知的・物的収穫を求めて、科学技術や地図づくり、航海術、造船術や軍備の改良がすすめられました。

 

 新世界との出会いは、ヨーロッパ人にとって多様な宗教観との出会いでもありました。一方で、彼ら自身の宗教観も多様になっていくこととなります。1517年からの宗教改革によりキリスト教世界が分裂し、それによって生まれたプロテスタントの大学では、カリキュラムと教授法が一新され、新しい科目や研究方法が導入されました。他方、カトリック内部でも改革運動は進行していました。対抗宗教改革がおこり、トリエント公会議では、司祭に対する教育の改善と、出版物において正統的教義が保たれているかの監視を強化が提唱され、イエズス会が熱心に取り組みました。イエズス会は何百もの学校や大学を発足させ、数学や科学を重視したカリキュラムを編成し、科学革命に関与することとなる多くの思想家を育てました。また、航海によって新たに開拓された交易路をつかって新世界へと進出し、多くの知識や習慣を獲得して蓄積していきました。

 

 このような、中世・ルネサンス以来の伝統、ヨーロッパ内での変化、そして新世界との出会いとそれによる知識の更新や拡散が、科学革命の土台をなすこととなります。

【集中講義@駒場】ヒライ「ルネサンスの星辰医学」

前の記事と同じく、東大駒場集中講義より四日中三日目、学生発表「占星術」の項での私の発表のレジュメを掲載します。

→講義概要:講師ヒライさんより…http://www.geocities.jp/bhermes001/komaba.html

→講義概要:東大科学哲学研究室…http://hps.c.u-tokyo.ac.jp/graduate-school/curriculum/2014/post_35/index.php

論文はこちらからダウンロードできます。

学習院学術成果リポジトリhttp://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/handle/10959/3375

随所で紹介されています。

→坂本さん「オシテオサレテ」より:http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20140309/p1

→科哲・藤本さん:http://d.hatena.ne.jp/fujimoto_daishi/20131223/1387829749

集中講義を通して、インテクチュアルヒストリーの内容を扱いながらも、

報告者は研究の方法論に着目してコメントを出すような試みでした。

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検討論文:ヒライ「ルネサンスの星辰医学」『学習院女子大学紀要』、第16巻(2014年)、25-41頁

報告者:フェリス女学院大学国際交流学部二年 須田千晶



1.はじめに

ルネサンス期以前における医学の理論と実践には、占星術が影響していた。

 ⇒具体的には(1)受胎と出生(2)健康や病気における諸相の分かれ目(3)投薬のタイミングに対して。

ルネサンス期に、2つの要因によって医学と占星術の結びつきに変化がおこる。

 (1)ピコ・デラ・ミランドラの『占星術論駁』による占星術への批判。

    ⇒占いとしての面を排除し、運動・光・熱などの物理的要素のみを認める。

     ⇒16世紀前半に活躍した医学者、ジョヴァンニ・マイナルディやジローラモ・フラカストロへ影響を与える。

 (2)マルシオフィチーノによって、新プラトン主義的な世界観の中に錬金術占星術、自然魔術のアイデアを挿入。

     ⇒宇宙を巨大な生き物であり、それは世界霊魂によって支配されている。身体である宇宙と世界霊魂は、世界精気によってむすびつけられている。これらを適切に操作できる術師であれば、小さな宇宙たる人間の身体も適切に扱える。

 ⇒ピコ・デラ・ミランドラは霊魂を取り除き、マルシオフィチーノは霊魂をよい重視している。

2.レオニチェノの自然主義

・ピコの占星術批判と密接に結びついた論を展開。

・これまで形成力に対するガレノスの考えとされていたものに対して反論。

 ⇒中世人たちの、アリストテレスの『動物発生論』にみられる形成力の起源を天界におく見解は間違いであり、正しくは熱のことであると指摘。

  ⇒この熱は星辰的ではなく、それに似ているだけ。

 ⇒中世人の、地に対して天界の動きが影響するという考えを否定し、自然主義的に解釈する。

3.フェルネルの星辰医学

・ガレノスの医学思想を自然主義的に解釈するのは間違いであるとした。

プラトン主義を援用してガレノスの考えをキリスト教信仰に調和しようと試みる。

 ⇒フェルネルの著作『事物の隠れた原因について』にて、星辰的なものを探求。

  ⇒前半:アリストテレスに帰されていた著作『世界について』を重要視しながら、フィチーノ流のプラトン主義的理論を借用することで、世界精気についてのプラトンアリストテレス間の意見、さらに古代ギリシア人とキリスト教徒間の意見の一致をしめそうとする。

  ⇒後半:プラトン主義とキリスト教の調和をガレノスの中におくことで、独自のガレノス主義の構築を試みる。

      ⇒プラトン主義におけるすべての事物の創造主たる宇宙的知性と、キリスト教における事物の唯一の創造神を本質的な意味で同一視できるとした。

・ガレノスの霊魂の本性についての見解を再構築。

 ⇒ガレノスのいう精気よりも高位にある霊魂の実体を、非物体的なものであるとした。

・霊魂の星辰的な起源と不滅性を確立。

 ⇒ガレノスの師であるヒポクラテスの著書『肉について』の中の「霊魂は天界からくる」という一節に、霊魂の星辰的な起源をみる。

 ⇒同書の中の「私の考えでは、われわれが熱とよぶものは不滅であり、現在と未来にあるすべてを感知し、見聞きし、知っている」という一節をもとにフェルネル自身の自説である霊魂の不滅性を構築しようとする。さらにキリスト教的教義と一致することで、霊魂の不滅性について保証されるものとした。

・独自のガレノス解釈を元に、生物のなかの精気が神的で星辰的性格をおびていることを、死にさいして生物が失うものを精気の熱とすることで証明しようとする。

・フェルネルのいう「神的なもの」とは、アリストテレスのいうところの「星辰の元素に 呼応する」ありとあらゆるものであるとした。

 ⇒この元素とは、アリストテレスのいうところの第五元素「アイテール」である。

  ⇒不滅であり永遠。生物に精気と霊魂の諸能力を与え、形相を規定するもの。

4.ミゾ―における天と地の調和

・師フェルネルの医学における天と地の調和の考えを発展させる。

・ミゾ―は著作『アスクレピオスとウラニアの対話における医学と天文学の結合』によって自身の精神医学の理論的基礎を確立しようとする。

 ・ガレノスの『身体の部位の有用性について』という著作中の一節より、人体と星辰との類似性をもっていることをみる。

  ⇒人体のつくりを学ぶことは天界との調和を発見することにつながるとする。

 ・医学者・哲学者たちの共通の見解として、アイテールが天界と人間の親和性を理解する鍵であることをしめす。

 ・太陽を世界霊魂の可視的な似像とし、太陽と人間の身体の心臓とが結びついているとする。

  ⇒特筆すべきは、コペルニクス以前の流布前であるにもかかわらず、ここに太陽

中心主義があること。ただしこれはルネサンスプラトン主義的なものである。

5.カルダーノと宇宙的な熱

・医学における予後と占星は基盤を共有していることを指摘。

 ⇒これらの先駆者としてヒポクラテスをあげる。

ヒポクラテスの事物の起源と不滅性、三元素、宇宙的な熱の解釈をとおして、事物に生命を与える知性のある宇宙的熱が、世界霊魂やその似像にあたるという発想を展開。

 ⇒この理論は16世紀後半の星辰医学のテーマとなる。

 

6.ゲマと星辰医学の頂点

・ゲマ:ミゾーの友人で数学者であり地理学者であるゲマ・フリシウスの息子。

 ⇒フィチーノプラトン主義い大きく影響されている。

ヒポクラテスの重要性をとらえ、独自の解釈を展開していく。

 ⇒アリストテレスの種子にやどる熱の理論と、ヒポクラテスの知性のある宇宙的熱の考えを結び付ける。

・ゲマのは著書の中で、フェルネルの言う「神的なもの」は、ゲマにとって身体や精神の治療だけでなく、人間や社会の健全さを確立するために重要なものでありとの考えを示す。

・同書の中で、精気が宇宙と人間のどちらにも共通して重要なものであるとの考えを示す。

古代ギリシア人とキリスト教徒の調和を確立するため、ヒポクラテスを中心としてアレクサンドリアフィロンやモーゼをそこに並置し、さらにヘルメスプラトン主義者を結び付けることで、神的なものを探求する一学派を形成しする。

 ⇒ヒポクラテスが火と水とよんだものが、モーゼが『創世記』で天と地とよんだものと呼応することから。

  ⇒よって、ヒポクラテスの『養生について』は、モーゼの『創世記』、ヘルメスの『ピマンデル』、プラトンの『ティマイオス』と肩を並べる中心的で特権的な地位を得る。

   ⇒つまりはここに、ゲマがルネサンスの星辰医学を頂点にもっていったことが見える。

7.パラケルスス主義と普遍医薬の探求

・これまでで築かれた星辰医学の理論的基礎を元に、病理学や治療術、薬学への応用がなされる。

パラケルススは自然界すべての事物が生きているという考えのもと、極端ともいえるキリスト教者としての哲学を発展させていく。

・著作『パラグラーヌム』:後に新しい医学のマニフェストとなる。

 ⇒天文学を、医学をささえる4つの支柱のひとつとカウントする。

  ⇒天文学のなかで天と地との間の関係性を説き、天にある星辰的な精髄が地上界にもあるとし、これは蒸留術などによって驚くべき薬効をもつとした。

   ⇒パラケルスス支持者たちによって、すべての病気に有効な普遍医薬の理論へ発展

パラケルスス派キミストのデュシェーヌは普遍医薬についての議論を展開。

 ⇒星辰的な精髄が天を構成していて、それは地のすべての自然物に浸透している。

 ⇒真の医学哲学者はキミアの技によって事物の物質的な外殻を取り除き、健康と生命の保持のためにかかせない普遍医薬をつくりだせると主張。

・普遍医薬の存在を確立したデュシェーヌは、普遍医薬の起源の説明をするため、聖書の『創世記』における天地創造の物語の解釈に努める。

 ⇒プラトンアリストテレスといった古代人とヘルメス主義者(キミスト)の間の、意見の一致をしめすことを試みる。

・デュシェーヌの足跡を追ったキミストたちの中では、『創世記』のキミア的解釈と普遍医薬の探求が重要な位置を占めている。

 ⇒ここに、ルネサンス期の星辰医学が脈々と発展していったことがみえる。

●コメント

現代ではほぼ失われた霊魂や精気について、星辰医学の側面から追っていると言える。そもそも霊魂という概念が医学にないという、現代に通じるもののあるピコ・デラ・ミランドラの理論をしめしつつ、天と地との間に関連性を見出し、霊魂や精気を重要視するフェルネルやミゾ―、カルダーノ、ゲマ、そしてパラケルススパラケルスス主義者デュシェーヌの考えを追っている。差異はありながらも、天と地とを密接に関連付けていることにおいて共通している彼らの理論をみていくことで、霊魂や精気をという星辰において核となる概念を概観しつつ、ルネサンス期における医学にたいする占星術の影響を見ていっている。星辰における霊魂や精気をキーワードに、様々な捉え方を集めてその思考の過程を見ているところに、インテクチュアル・ヒストリーの手法が見いだせると言える。

 

【集中講義@駒場】平井浩「ルネサンスの種子の理論」

この夏、東大駒場で行われた夏期集中講義に参加してきました。

4日中2日目、23日(水)の学生発表「キミア」の項で発表をしましたので、そのレジュメを掲載します。

→講義概要:講師ヒライさんより…http://www.geocities.jp/bhermes001/komaba.html

→講義概要:東大科学哲学研究室…http://hps.c.u-tokyo.ac.jp/graduate-school/curriculum/2014/post_35/index.php

 

この論文は著者のホームページでも公開されています。

→参照:http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9866/shiso.html

 

また、随所で紹介されています。

→東大科哲藤本さん:http://d.hatena.ne.jp/fujimoto_daishi/20130209/1360427142

→紺野氏のブログ「石版!」より:http://sekibang.blogspot.jp/2010/04/200212.html

 

集中講義を通して、インテクチュアルヒストリーの内容を扱いながらも、

報告者は研究の方法論に着目してコメントを出すような試みでした。

 

 

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検討文献:平井浩「ルネサンスの種子の理論――中世哲学と近代科学をつなぐミッシング・リンク

『思想』944、2002年、129–152頁。

報告者:フェリス女学院大学国際交流学部二年 須田千晶 

 

1.はじめに

・種子とは

 ⇒各事物の個性を決定するもの。

 (例)現代の生物学における遺伝子、化学における分子、

    アリストテレス主義スコラ哲学における形相。

・本稿におけるルネサンスの種子の理論の位置づけ

 ⇒中世哲学の形相理論と科学革命期の機械論的分子理論のミッシングリンク

 

2.古代・中世における種子の概念

ルネサンス以前の種子の理論

 ⇒ソクラテス以前の哲学者たち:宇宙や事物の起源

 ⇒プラトン:自然の各存在の不滅の部分(創造主である父なる神によって準備された)

 ⇒ストア派:ロゴイ・スペルマティコイ

・ロゴイ・スペルマティコイとは

 ⇒能動的原理として物質の中に内在し、各自然物の種の個別性を伝達・保存するもの。

 ⇒プロティノス:質料に加えられることで諸物体を成り立たせるもの

  ⇒聖アウグスティヌスはこれを聖書の教えと日常生活とを両立する試みに取り入れる

・種子の理論の衰退と存続

 ⇒アリストテレス主義におされ、衰退。

 ⇒古代原子論の中に存続(特にアラビア錬金術における硫黄と水銀による二原質理論において)

 

3.フィチーノルネサンス型種子の理論の誕生~

フィチーノフィレンツェの哲学者でプラトンプロティノスの翻訳者

 ⇒プラトンの種子の理論を介して、プラトン主義形而上学アリストテレス主義自然学を従属させようとする。

  ⇒古代のロゴイ・スペルマティコイの理論が復活(アウグスティヌス以降類なし)

・フランス人医師フェルネルへの影響

 ⇒種子の理論を医学教育に持ち込む

 ⇒ガレノス主義的である自らの医学思想の根幹におき、ガレノス医学とキリスト教信仰の調和を図る。

 

4.パラケルススアウグスティヌスの影の下に~

パラケルススの考えの根幹

 ⇒事物は硫黄・塩・水銀の三原質からなっている。

 ⇒種子とは、硫黄・塩・水銀の三原質が三位一体的にまとまったものである。また、神が天地創造の際「何かを無から創造した」とされているこの「何か」こそが種子である。

・種子の理論を自然学へ応用

 ⇒種子の理論を、広範な自然現象へ関連付けただけでなく、天地創造論までカバー。

 

5.セヴェリヌスと種子の哲学の確立

・フェルネルとパラケルススの理論を体系化

 ⇒特にパラケルススの権威を確立することに努める。

  ⇒パラケルススの持つ三原質の理論を、プラトンアリストテレスらの考えと矛盾しないとの確信から。

  ⇒後に登場するパラケルスス主義化学哲学の金字塔的著作の理論的根拠を成す。

   ⇒「種子の哲学」の中心的概念へ

 

6.ファン・ヘルモントとキミア的種子の理論完成

・ファン・ヘルモント:パラケルスス主義者。その著作内で展開される種子の理論には、セヴェリヌスの影響が強くみられる。

 ⇒特にセヴェリヌスの『哲学的医学のイデア』からの牽引がみられる。

 ⇒セヴェリヌスとの違い…パラケルススの中にある聖書の『創世記』の諸概念の導入

・中世後期の錬金術師である偽ゲベルの、錬金術における粒子論的物質理論の受容と種子の理論とを結び付ける

 ⇒その後の、種子の概念の粒子論的再解釈の場を与えることとなる

 

7.ガッサンディと種子の理論の粒子的な再解釈

ガッサンディの種子の理論を正しく認識するにはキミアが鍵となることを指摘。

 ⇒それを踏まえて注意深く探ると、真の典拠としてセヴェリヌスの『哲学的医学のイデア』を見つけることができる。

・粒子論的に再解釈

 ⇒ガッサンディにとって不可視である種子は、原子が空間的にある秩序で結びついた分子と理解。

 

8.むすび

・機械論的分子理論へつながっていく

 ⇒ファンヘルモントの種子の理論とガッサンディの分子の理論は、17世紀後半にボイルをはじめとする多くの科学者の物質理論に影響を与えた。

ルネサンスの種子の理論のその後

 ⇒ファン・ヘルモントの息子と交友を深めた晩年のライプニッツモナドの理論へと流れていく。

 

 

≪コメント≫

それぞれに影響を与えた考えや真の典拠を探っていくことで、一見隔絶しているように見える者の間に共通点を見出すことに成功している。本稿では、大学に身をおくフェルネルと放浪の身であったパラケルスス、それから、合理的な”機械論者”といわれる原子論者ガッサンディ神秘主義錬金術師というレッテルをはられて片づけられがちなファン・ヘルモントとの間に特にそれがみられ、このことが、この科学革命期から始まる機械論と中世哲学の形相理論の間に、見落としてしまっている種子の理論の発見と位置づけを成功させているといえる。そのためには、明記されている出典だけでなく、著者らの思考にかかわったできるだけすべてを、蔵書や時には原稿の余白にまで目を向けるなど丹念に見ていく必要があることも、本稿の中で語られていると言える。