橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第4章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 

【第4章 中国の科学】

 

 中国科学史家のジョセフ・ニーダムは、著書『文明の滴定』の中で、ヨーロッパ文明と中国文明における科学技術のあり方を比較考量し、両文明の科学技術の特質を見極めようとした。また、アインシュタインやギリスピーの東洋文明の捉え方を、狭い見方であると批判した。ニーダムは、中国には科学の名に値する、西洋とは異なる様式の知的体系が形成されていると主張した。中国科学の特徴は天文学によく表れており、大きな天文台を設け、正確な天文観測に基づく暦を作り上げた。一方で、宇宙の構造についての議論は初歩的な段階に止まっていた。

 

 中国において暦は重要な法典としてみなされ、暦の決定・製作・頒布は国家事業として推進され、天文学研究はそのためにあった。皇帝の入れ替わりや革命があった際には、制度や法律の変革とともに暦法も改革され、属国にもその施行を強要した。中国の暦は日本の旧暦同様、太陰太陽暦である。すなわち、季節を一巡する一年と月の満ち欠けに対応する一ヶ月とを組み合わせたものであった。一年の長さは十二ヶ月であり、十三ヶ月目の閏月を設ける「置潤法」が紀元前5〜6世紀に確立すると、十九年に七回閏月を挿入する「章法」が編み出され、5世紀には「破章法」とよばれるより緻密なものに改良された。また前漢代からは、日食と月食、「五星」という惑星の運行が暦の中に記入された。一年一ヶ月の長さの規定は農業など日常生活と結びつき、日食や惑星の運行は占星術と結びついた。この占星術は、代々皇帝にとって国家の行く末を占う重要行事であると考えられた。中国古来の書のうちの一つである『易経』の中で天文現象は、地上の人間社会のあり方や行く末を反映するものであり、天体観測によって人間社会の予兆を伺うことができると説かれている。この占星術は、特に乱世春秋戦国時代に重要視され、理論的体系として形成された。占星術は英語で個人の運勢を占うホロスコープと社会全体の運勢を占うアストロロジーがあるが、中国における占星術は後者であった。よってその情報は国家機密として取り扱われた。その天体観測のために「太史局」とよばれる国立天文台が周の時代には設けられていた。また、継続的な天体観測を行うための組織的な基本制度は、漢代に確立された。一方西洋では、このような大規模かつ系統的な天文観測事業は、中世においてもなされなかった。

 

 太史局は官僚機構の一部となっていた。太史局の長官、太史令は科挙を通った高級官吏や『史記』で有名な司馬遷が務めることもあった。長官太史令・副長官太史氶のもと、三部門が組織された。すなわちそれぞれ、暦法の研究と毎年の暦の作成、天文観測と占星、時間測定と報時を司った。暦を作成する者に司暦、天体観測をする者に監候という役職が付与された。また太史局には教育機関も備わっており、造暦を教授する暦博士と暦生、天体観測の天文博士と天文生、時刻測定の漏刻博士と漏刻生という、教官と学生から構成されていた。また、中国の星座や星の名前には、西洋のように神話的彩色は施されず、宮殿の場所や官僚の役職名が割り振られた。このような天文学的情報は国家機密であったために、天文台の職員は部外者との交流を禁じられ、一般人が天文観測器具や天文学書を所有することも禁じられた。このように、中国の天文学研究は、官僚機構の枠組みの中で閉鎖的に進められた。

 

 中国において宇宙の構造を探求が熱心にされなかったのは、天文学が官僚の任務として営まれ、宇宙構造の探求がその枠内に含まれていなかったためである。古代中国には、二つの代表的な宇宙論が存在していた。それは、平面の大地の上に天蓋が傘のように覆っているという「蓋天説」と、球状の天空の中央に水に浮かぶ大地があるという「渾天説」であった。渾天という名は、漢の武帝の時代に新暦が作られた際に用いられた天体観測器械「渾天儀」に由来する。渾天説において雨は、天球の外から降ってくるものであり、太陽は夜間に天球の内側の水中を通り抜けると考えらえていた。6世紀に武帝が学者を集めて両説の優劣を討論させた際、渾天説が有利であったにも関わらず、皇帝自身の采配で最終的に蓋天説が有利であるとされた。この出来事以降、宇宙論に関する論争は無益不毛なものとみなされ、天文学における宇宙構造の探求は学者らの職分でないとされた。この考えを批判し、宇宙の構造を探求し、それに基づいて暦の決定版を作成することを指し示したのが、南宋の思想家朱熹であった。彼の思想体系「朱子学」は、政治や倫理、自然、宇宙に関して考察している。その根底には、陰と陽が周期的に繰り返し、火・水・土・木・金の五元素が生成変化するという中国古来の伝統的な自然観「陰陽五行説」があった。朱熹宇宙論は、アリストテレス宇宙論のように地球の周りに天球をもつものであった。アリストテレスと異なるのは、天を構成するのは「気」という物質であり、それが高速回転して九つの層を形成していると説いた点である。またこの「気」は、希薄になったり濃密になったりし、気が火になることで太陽や星が形成され、火から水や土が形成されることで地球が生まれ、土は木や金に変成することで地上の物質が生まれるとした。

 

 朱熹は、暦の作成は緻密な天体観測に基礎付けられるべきであると主張し、天文観測器具に関心を寄せた。暦法を基礎付けるのは、今日でいうところのパターンを意味する自然の「理」であるとし、天体の位置を表し占星術的意味を付与されていた「数」ではないとした。また、天文台での観測結果が、暦法に合わせて操作され記録されるという悪習が横行しており、より精密な観測が必要とされた。時代が元へ移ると、勅命の元に改暦のための委員会が設けられた。その委員に朱熹の弟子の一人である郭守敬がいた。郭守敬は数学に秀でており、都水監という治水事業を管轄する官僚であった。彼は天文学器具を新しく製作することを主張し、渾天儀など新しい器具の設計と製作、太陽の高度を測定するために垂直にたてられ10mに及ぶ高さを有する「ノーモン」の建設計画を行った。これらの利用のために、新しい天文大「太史院」が建設された。ノーモンによって一年の起点である冬至が正確に決定され、これをもとに新しい暦「授時暦」がつくられた。この際、新しい数学的技法を用いることで太陽と月の不均一な運動が補間され、完成された暦法となった。このように暦法は、近代以前の中国科学の最高の成果であった。一方、宇宙論の探求は副次的作業に止まり、朱熹宇宙論が暦と結びつけられることはなかった。一方、西洋においては、ギリシアで宇宙像の探求が進み、その知識が共有され、近代科学への流れを形成していた。

 

 中国で世界三大発明とされる製紙術・火薬・羅針盤が発明されるなど、中国は様々な分野において技術が高度に発達した。造船技術も発達し海洋船が建造され、元代には外国貿易が奨励されたために海上交通が非常に発達した。しかしながら明代に入ると、海洋航海が禁止されることとなる。その理由としてあげられるのは、イスラム教徒宦官鄭和を司令官とした大船団がアラビア半島やアフリカ東岸への大航海を行っていたが、その鄭和をめぐる派閥争いがあったことや、国内の運河網が発達したため海上輸送の必要がなかったこと、海軍に力を入れる必要がなかったことがなどあげられるが、定かではない。

 

 ニーダムの分析によると、ヨーロッパ科学は古代ギリシアの興隆しその後の低迷するが、中国科学は古代・中世を通じて持続的に成長し続けた。1600年頃になると、中国が遠洋航海を禁止したのと対照的にヨーロッパは大航海時代を迎え、ヨーロッパ科学が中国科学の水準に追いつき、急激に成長していくこととなる。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第3章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 



【第3章 中世の科学】

 

 古代ギリシアの科学は、アレクサンドロス大王の元、エジプトの都市アレクサンドリアにおいてさらなる発展を遂げた。図書館兼研究所であり、ミュージアムの語源にもなった「ムセイオン」が設立され、ユークリッドの数学書『原論』やプトレマイオスの天文書『アルマゲスト』など、各地の書物が収集され、研究の場を提供することとなった。ローマが地中海を支配した後は、自然科学は一時停滞することとなる。その理由は、ローマ人が実用的な技術や医術を重視したためであった。ローマの没落後、哲学・科学研究の中心は、コンスタンティノープルやシリア、アラビアなど東へ移ることとなる。

 

 今日使われている科学用語には、アラビア語を起源とするものが残されている。数学者アル・フワーリズミーは、数学計算のステップをさす「アルゴリズム」の語源となった。また、彼が著した代数学の書『アル・ジャーブルとアル・ムカーブルの書』の「アル・ジャーブル」は代数学をさす「アルジェブラ」の語源となった。代数的計算法は、コーランに親族への遺産分配の仕方が規定されているため、重視されていた。アラビアの科学は、9世紀におけるシリア・ギリシア文献の翻訳運動から始まった。カリフ、アル・マアムーンによってバクダッドに研究所「知恵の館」が設立され、文献学者フナイン・イブン・イスハークによる大規模翻訳活動が展開された。数学や天文学、医学、哲学各領域で独創的な研究が展開された。また、アリストテレスユークリッドプトレマイオスらの学問成果が継承され、部分的に批判・修正された。

 

 12世紀になると、アラビアで継承発展されたギリシアの学問は、ラテン世界へ輸入される。ヨーロッパの諸都市が活気づくことを背景に、学問の教育と研究を行うことを目的といた「大学」が設立されることとなった。大学において、アラビア語学術文献がラテン語訳された文献(写本)がテキストとされた。イタリアで生まれたジェラルドはスペインへ赴き、70冊にもおよぶラテン語訳を成した。この中にはアリストテレスユークリッドプトレマイオスなど、ギリシア科学の基本文献が含まれていた。大学を構成するのは、神学・法学・医学の専門学部と、そのための基礎教養を担う学芸学部であった。哲学部とも呼ばれる学芸学部においては、自由学芸七科とよばれる基礎科目が学習された。その内容は、文法・修辞学・論理学の三科目と、算術・幾何学・音響学・天文学の四科目であった。論理学においては三段論法と議論の作法が教えられ、中世の大学で重視される科目であった。

 

 アリストテレスの哲学体系が大学で研究され知られるようになると、アリストテレス哲学とキリスト教の教えの間にある食い違いが認識されるようになった。このことついて、学芸学部の哲学者たちと神学部の神学者たちで異なる見解をもち対立するようになり、13世紀を通してパリ大学で激化することとなった。1210年にパリ大学にてアリストテレスの著作が読解禁止になり、1255年になるとその禁止令が解除された。しかしながら哲学部と神学部の対立は深刻化し、1270年に13の命題がキリスト教に反する誤ったものとして選定された。1277年には教皇ヨハネ21世に命令されたパリ司祭エチェンヌ・タンピエによって「タンピエの譴責(けんせき)」とよばれる219の命題が選定され、これら誤った命題を主張したらキリスト教から破門されることとなった。選定された、すなわち否定されたアリストテレス哲学の命題は、次のようなものであった。すなわち、神学的真理の他に哲学的真理が認められことはないとして否定された「真理の二重性」、神の創造によって始まり神による最後の審判があるため否定された「世界の永続性」、神は絶対的な力をもっているため最外天球の外にも世界を創造できるために否定された「世界の単一性」、全能の神は真空も生み出せるとして否定された「神は天体を直進運動させられない」というものなどであった。

 

 タンピエの譴責は知的活動を制限するものであると同時に、アリストテレス哲学を超えるきっかけをあたえるものであった。14世紀中葉、パリ大学学芸学部の教授であったジャン・ビュリダンは、キリスト教すなわちタンピエの譴責からはみ出ずにアリストテレス哲学を精緻化し、自然学の理論を組み立てた。彼が著した『自然学問題集』はアリストテレス哲学の授業の講義ノートであり、彼の主張が記されている。すなわち、神は真空をつくることができ、天体を直進運動させることができるが、真空は神学の領域であり哲学者としての自分の領分を超えた問題であるとした。また、投射体の運動についてアリストテレスの考えに反論している。投げることで手から離れた石は自然運動をしているのか強制運動をしているのかという問題に対し、アリストテレスは、物体が動くことにより前方の空気が後方に回り込み物体を後ろから押している、つまり強制運動をしているのだとした。このような駆動方式を、アリストテレスは「アンチペリスタシス」とよんだ。これに対しビュリダンは反論として、回転する石は空気に押されているわけではないことや、先端も末端も尖った槍がよく飛ぶその場合空気はどうやって押すのかという点を指摘した。この回答としてビュリダンは、石には投げる動作によって、物体を動かす本性をもつ性質である「インペトゥス」がこめられ、これが駆動力の源になっていると主張した。これは、近代力学の「慣性」に近い発想であった。

 

 このように中世における自然学の研究は、キリスト教神学という枠内で進められながらも、アリストテレス哲学を超越した可能性について考察する豊かさをもっていた。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第2章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 

【第2章 ギリシアにおける自然学の誕生】

 古代ギリシアの人々は、自然現象について神話的説明をしていた。ホメロス叙事詩においては、万物はオケアノスとラテュスという神がつくったとされていた。これに対して、論理的考察によって自然界にその要因を求めた人物が、タレスである。彼の後継者の一人であるアナクシマンドロスは、動物の祖先は究極的には物質であると説いた。ただし、人間は一人で生きることができるようになるまで時間がかかるため、物質からでなく動物から生まれたのだとした。この物質、すなわち万物の生命の源について、タレスは水であるとした。また、アナクシメネスは空気であるとし、ヘラクレイトスは日であり万物は流転すると説いた。

 ピタゴラスは万物の原理は数であるとし、天文や自然現象に比例関係を見いだそうとした。彼は数の原理が成り立つ例として、音律をあげる。弦の長さを比例関係を活用して調整することで、音階の高さを定めた。この音程の高さをきめる規則は、「ピタゴラスの音律」とよばれた。またピタゴラスの弟子によって、直角三角形の斜辺の長さの比、1:√2という無理数または不可共約的比例関係とよばれる数の存在が発見された。この不可共約的比例関係を表現するためには、自然数よりも線分や幾何図形の方が相応しいと考えられるようになっていた。そのピタゴラス以降の数学的知識の集大成が、ユークリッドの『原論』である。それは、少数の公理から定理が演繹的に導かれる体系であった。

 ギリシア自然哲学の発展に大きく寄与した人物に、パルメニデスがいる。彼は変化は不可能であると主張し、変化前後に同一性を認めず、生成・消滅・変化・運動を否定した。またパルメニデスは、彼の哲学の根本命題として、「パルメニデスの難問」とよばれる次のような命題を提示した。すなわち、「ものは〈ある〉か〈あらぬ〉かのどちらかである。〈ある〉ものはどこまでもあり、〈あらぬ〉ものは知ることも語ることもできない。」というものであった。この主張は同時代にとどまらずその後の哲学者たちへ深刻な影響を及ぼした。エンペドクレスはこの主張を受けて、変化しない四元素(火・空気・水・土)の組み合わせによって自然界の多様な存在が生み出されると主張した。パルメニデスの難問に対する回答を提示したのは、原子論者らであった。デモクリトスは、変化せず分割されない原子(アトム)の組み合わせや位置によって自然界の多様な存在が生み出されるとした。しかしながら、原子が移動し配置を変えるには、隙間が必要である。その隙間は、原子も物質も存在しない真空であるはずであった。このように〈ある〉が原子で〈あらぬ〉が真空であるとするならば、知ることも語ることもできないはずの〈あらぬ〉について矛盾が生じることとなる。この矛盾はその後のギリシア哲学者たちを悩ませた。

 パルメニデスの難問に対して、ギリシアを代表する哲学者であるソクラテスは、彼の弟子プラトンの書いた『パルメニデス』に登場し、次のように語っている。すなわち、ソクラテスプラトンによれば、我々の目に映る世界は幻影であり、その背後の「イデア」という不変で実在の世界があるという考えを示した。これを模範とした回答が、プラトンの弟子であるアリストテレスによって提示された。彼によれば、変化とは「可能態」から「現実態」へ移行することであった。可能態とは、未だ目に見える形では存在していないが、いつかその能力を発揮し目の前に現れる力が隠れて備わっているものである。アリストテレスは、ミレトス派の自然哲学者以来のすべての知識・学問を体系的に整理し秩序づけた。すなわち、神学や数学、自然学などの理論的知識と、政治学倫理学などの実践的知識に分けたのである。また、自然学において変化を研究し、幾何学において不変な存在を対象とし自然界を対象外とした。よって今日における数学の物理学への応用は、アリストテレスの哲学体系の中では認められないことだったのである。自然学のなかで説かれた「変化」は量・質・位置の三種類があった。位置は運動に相当し、その運動は自然運動と強制運動の二種類あるとした。自然運動とは自分の本性に従ってひとりでにおこるもので、物体の落下がそれに該当した。アリストテレスによれば、物体の落下は重力の仕業ではないのである。強制運動は外部の力により自分の本性に逆らっておこるものとされた。

 またアリストテレスは、デモクリトスにならって、すべての地上の物質は四元素によって構成されると考えた。四元素における火と空気は自然運動において上昇の本性をもち、水と土は地球の中心へ下がる本性をもつとした。生物には四元素に加えて霊魂が付与されると考えた。植物には司る植物的霊魂が、動物はそれにくわえて知覚と運動を司る動物的霊魂が、人間にはそれらにくわえて精神作用をつかさどる理性的霊魂が備えられているとした。ただし、天界の物体は第五元素またはエーテルとよばれる別の元素でつくられていると考えた。天を構成するのは球状の殻である「天球」だとし、その天球は全部で55あり、エーテル(第五元素)で構成されているとした。その本性は円環的運動であり、神による最初の一撃後は55の天球がそれぞれ回転運動をし続けていると考えた。アリストテレス宇宙論において宇宙の中心は地球であり、その内側から外側にかけて、月を運ぶ天球、太陽や惑星を運ぶ天球、無数の構成が埋め込まれた天球すなわち最外天球があるとされた。

 アリストテレスギリシア哲学のひとつの頂点を築いた。古代ギリシアの人々は、紀元前3世紀にはすでにこのような自然や宇宙の構造に関する合理的認識をもっていたのである。

橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第1章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 【第1章 西洋科学の精神】

《概要》

 西洋科学の営みにおいて、新発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認・非承認を受ける。一方東洋においてこの科学的大気は発生しなかった。その事例として、コッホによる日本の西洋医学についての批判があげられている。なぜ東洋科学は西洋科学の営みと異なるのか。それについてアルバート・アインシュタインは、古代ギリシアから時を経てこの科学的大気が西洋で醸成されてきたこと、それ自体が驚くべきものであると述べている。

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 西洋科学の精神は2000年かけてつくられたものであり、一生かけてそれを習得していくのだと主張したのは、ドイツの医学者エルヴィ・フォン・ベルツであった。彼はお雇い外国人として日本に長期滞在し、西洋医学教育を行った。日本は科学的理論の輸入はしたが、その精神は持込きれてないと指摘していた。彼の言う西洋科学的精神を学んだ人物として、1890年に破傷風の病原菌を発見した北里柴三郎があげられる。北里は東京医学校を経て内務省衛生局に勤務し、1888年にベルリンの帝国衛生院へ留学した。留学先で師事した細菌学の父ロベルト・コッホから、この西洋科学的精神を学んだことが垣間見れるエピソードがある。すなわち、北里の先輩であり指導者であった緒方正則が脚気の病原菌を発見したとき、北里はコッホに促されてその吟味に取り掛かったところ、その発見が誤りであることがわかった。その指摘を公表することにためらいをおぼえたものの、科学研究における論理は私情を超えたものであるとコッホに説かれ、公表したという。北里の師コッホは、黴菌病因説を唱えた人物であった。コッホは新しい病原菌が発見されるには、その病原菌が、①当該病気の体内に規則的に見出されること、②病状のないところには見出されないこと、③培養された数世代後の菌でも同じ病気が生じること、という「コッホの条件」とよばれた三つの条件を提示した。この研究の背景として、顕微鏡の性能が向上による微生物研究が発達がある。微生物研究の代表的な人物として、生物学者ルイ・パストゥールがいる。彼は、微生物が発酵現象に関与していることや、無機物からの自然発生でなく親や胞子から生まれることを示した。細菌という微生物が病気の原因であると考えたコッホの元で学ぶことを希望した日本人に、軍医本部長の石黒忠悳がいる。彼はミュンヘン大学にて医学者マックス・フォン・ペンテコーフェルの下で学んでいたが、北里と交代する形でコッホの下で学ぶことを希望した。ペンテーコーフェルは、ミアマス病因説を主張していた。19世紀半ばまで有力視されていたこの説は、病気の原因は不衛生な環境の害毒(ミアマス)によるとするもので、コッホの黴菌病因説と根本的に異なる説であった。その故もあり、北里はミュンヘン行きに対し反発していた。この北里と石黒を仲裁したのが、石黒に同行していた森鴎外こと森林太郎であった。森のはからいにより、北里はベルリンに滞在し続けることとなった。

 科学の営みにおいて、新たな発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認を受けたり退けられたりする。このような科学研究の進め方は古代ギリシアからはじまり、ダーウィンやレントゲンへと流れていき、西洋科学の精神的大気を醸成した。しかしながらなぜ、西洋で生まれたこの科学的大気は東洋で生まれ育まれなかったのか。このことを友人から問われた物理学者アルバート・アインシュタインは、東洋に科学的大気がないのはおどろくべきことでなく、西洋に科学的大気があることこそおどろくべきことであると語った。このアインシュタインの言葉を引用して、科学史家のチャールズ・ギリスピーは、オリエント文明は技術や魔術以上の事物一般へまで好奇心が及ばなかったのだと言及した。ギリシア人による神話から知識への転移が、哲学だけでなく科学の起源であったのだ。

古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第3章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

  【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第三章大学と学会(南窓社、2001年4月)p49−p65

 
 16−17世紀において新しい学問である近代科学が誕生したのは、大学の外においてであった。当時から今日まで学校という組織は、既存に確立されているある時代に支配的な枠組みすなわちパラダイムを、次世代を担う学生たちに伝授していくことでその後継者を拡大再生産するという保守的な機能を担っている。16−17世紀当時の学問のパラダイムは、スコラ学であった。スコラ学は中世後期から近代初頭までに確立し、カトリック教会の公認を受けて大学と教会に支えられていた。
 
 14世紀にはオートルクールのニコラのように、大学人でありながらアリストテレス主義に反旗を翻した者もいたが、結果として彼はパリ大学を放逐されることとなった。このようにキリスト教会から思想的理由で異端の烙印を押された学者は少なくなかった。ブルーノは投獄の末に火刑に処され、コペルニクスの著作は教会史上初の禁書目録入りとなった。ガリレオと教会の対立は単純に科学と信仰の対立と捉えがたいが、ガリレオがローマ教会公認の天動説に背いたことから教会に裁かれたことは事実である。教皇庁のこうした処置は、反宗教改革の気運の中で政治的権威を堅持する意思表示でもあった。ヨーロッパの大学は、その起源からカトリック教会と不可分の関係にあった。初期の大学の教師はほとんどが聖職者であり、学生の大半は教会関係の仕事に就くためにそこで学んだ。ガリレオの時代までには大学の世俗化が進み、聖職のための機関という性格は弱まり始めていたが、学問的にも制度的にも教会の統制を受ける状態は消えていなかった。よってこのような風土をもつ大学という舞台において、新しい学問である近代科学は萌芽し得なかったのである。
 
 大学の起源は、12世紀ルネサンスの大翻訳運動まで遡る。それ以前の教育の場といえば修道院や司教座聖堂付属学校であったが、12世紀という知的高揚に満ちた特異な時代背景から、大学という新しい機関は生まれた。その役割は、アラビア世界から西欧に流入した膨大な量の新たな知識を研究し、発展させることにあった。大学、すなわちユニバーシティの語源であるラテン語のウニヴェルシタスには、教師と学生によるギルド的組合の意味がある。それは、大翻訳運動の最中に都市にて自然発生した私塾などの教師と学生が、自己の生活を外部から自衛するために、一般の手工業者の同業組合にならって組織したギルドが発展した機関である。大学の入学資格には年齢や学歴による制限はなく、教授会の認定で入学や卒業が決められた。ローマ教皇庁もその保護に積極的に加わったが、大学の運営は基本的にカトリック教会と深く結びついていた。教皇庁は世俗権力や各地の教会に対する優越をめざし、くわえて思想的統制をはかるべく大学を支配下に置いていた。教師は聖職者で占められ、また聖職者の養成が大学の重要な使命であった。宗教改革を経て各大学は宗教的色彩を強めることとなる。くわえて世俗権力の台頭と国権の強大化に伴い、国家の官僚を養成することもまた大学の大きな使命となった。1500年までの間にヨーロッパの諸都市では相次いで大学が創設されたが、今日に残るヨーロッパの大学の多くはこの時期に創設されたものだ。中世後期において科学を含むほとんどすべての知的活動は、これら大学の中で行われた。くわえて中世科学を代表する学者はみな、当時のパラダイムであるスコラ学の学者であった。
 
 中世の大学の上級学部には、神学・法学・医学の3つの専門過程があり、聖職者・法曹家・医師の養成を行っていた。この形は19世紀前半まで続いた。科学が大学で正規の専門教育として取り入れられるのは、19世紀以降のことである。中世の大学では専門に入る前の一般教育の場として学芸学部が設置されていた。哲学部と呼ばれることもあるそれは、中世の修道院付属学校や司教座聖堂付属学校以来の伝統的カリキュラムであった七自由学芸が踏襲されていた。その内容は、文法・修辞・弁証術の三科と算術・幾何学天文学・音楽の四科からなり、いわば実用教育に対する人間形成教育・教養教育であった。中世の大学では、神学や法学などの専門課程だけでなく、学芸学部においてもアリストテレスの学問が浸透していた。すなわち、大学の学問の柱はアリストテレス学であり、学者集団はそれを教授し維持することを使命としていたのである。そしてこの傾向は、科学革命期の大学においても実質的に変わりはなかった。
 
 新しい学問である近代科学の活動の場とされたのは、大学の外に成立した新しい学者の共同体、すなわち学会であった。学会の起源はイタリアルネサンス人文主義運動とかかわりがある。学会の支援者は、教会の対抗勢力として都市の政治や経済を牛耳るようになった世俗の富豪たちであった。15世紀前半にメディチ家の保護を受けて設立されたアカデミア・プラトニカ設立以後、イタリアでは多くのアカデミアが乱立した。その中で植物学者であったチェージ公自ら1603年にローマに設立した「アカデミア・デイ・リンチェイ(山猫アカデミア)」は、自然の探求を共通目的とした最古の学会の一つである。ガリレオもその会員として活躍し、『太陽黒点論』と偽金鑑識官を意味する『イル・サジアトーレ』の二冊の書物を同会から出版した。1657年にはフィレンツェメディチ家パトロンとした「アカデミア・デル・チメント(実験アカデミア)」が創設され、ヴィヴィアーニを始めとするガリレオの弟子たちが中心となって活動した。ここでは様々な共同実験が行われ、その成果は『サッジ』という自然についての実験論文集にまとめられた。しかしながらイタリアに誕生したこれら「ルネサンス型アカデミア」は、いずれも短命であった。なぜなら、これらの集まりは小規模かつ私的・社交的な集まりであり、パトロンが亡くなるとともに解散してしまうすケースが多かった。フランスにおいてはメルセンヌを中心としたサークルが生まれ、書簡のやり取りを通してヨーロッパ中の自然探求者の情報交換の場となったが、やはり彼の死をもって自然消滅してしまっている。しかしながら、ロンドンに誕生した王立協会は、これらをはるかにしのぐ学会であった。
 
 今日に続く最古の歴史を持つ科学の学会であるロンドン王立協会の創立と活動は、ベイコンの学問革新論と深くかかわっていた。ベイコンにとって知識は力であり、これによって自然を服従させ、意のままに役立たせることができた。そのために観察や実験によって自然現象についての知識を出来る限り多く集めなければならなかった。それには、自然探求者の共同作業が必要になると考えられた。ベイコンが執筆した科学のユートピア的小説『ニュー・アトランティス』の中で彼が描いた「ソロモンの家」は、この目的達成のために作られた学者の共同体であった。この発想に刺激を受けて生まれたのが、王立協会である。王立協会には、ボイルを中心とした「見えない大学」と称する非公式なグループやグレシャム・カレッジの有志が集まり、1662年に国王チャールズ2世の勅許を受けて「自然についての知識を改良するためのロンドン王立協会」という正式名称で発足した。王立と冠しながらも、その実際は私立の学会であった。イギリスでは多くの場合、「王立」とは王室から権威の象徴として名目的に認可された冠称に過ぎなかった。ゆえに共同出資制をとったため、結果的にパトロン個人に左右されない安定性をもっていた。私設であった王立協会は。それゆえ個人主義的・アマチュア主義的体質をもっていた。また、興味を持つ者に広く門戸を開いたため、実際には研究活動をしていない名目的な会員が多数選出され、会員の大半を占めることとなった。彼ら名目的会員たちは財政をうるおすとともに、協会の社会的威信を高めるという利点があったために歓迎された。
 
 王立協会は、ベイコンの理念に従い、自然の観察や実験を通して得た新知識を持ち寄って論じ合うことに重きを置いた。1665年には、書記のオルデンブルグによって学会の成果の発表の場として、機関誌『フィロソフィカル・トランザクションズ(哲学紀要)』が創刊された。これが今日まで続いている最古の科学雑誌である。これは迅速な研究結果の発表メディアという機能を備え、今日の学術雑誌の先駆となった。この王立協会には、創立時からベイコン主義者であるボイルがかかわっていた。また、ニュートンの活躍の場は大学よりもむしろ協会であり、ここで『プリンキピア』などの主要著作を出版し、晩年には長くその会長を務めた。フックは1663年より協会の実験責任者となり、積極的に公開実験を行った。
 
 フランスでは1666年にパリで王立科学アカデミーが誕生した。この学会の創立理念もまた、ベイコンの思想と深くかかわっていた。王立科学アカデミーは、ガッサンディホイヘンスが活躍して脚光を浴びていたモンモール・アカデミーの会員によって科学の研究に国家の援助が必要であることが政府に訴えられ、ルイ14世に仕えていたコルベールの力を得て、ロンドンの王立協会創立から4年後にパリで創立された。王立協会と同じくベイコン主義に従い、科学研究の社会的有用性を主張した王立科学アカデミーは、技術的生産性を優先させる重商主義政策を推し進めようとしていた財務総監コルベールの政策とも合致するところがあっただけでなく、ルイ太陽王の威光を全ヨーロッパに誇示するためにも有用であると判断され、科学と技術の公的諮問機関として発足することとなった。
 
 王立科学アカデミーの気風は、イギリスの王立協会とは極めて対照的であった。王立協会が比較的多様な社会階層に門戸を開いた私立団体だったのに対し、王立科学アカデミーは選ばれた少数の科学者から構成された国家直営の王立研究所であった。政府からの財政援助のもとに研究が進められ、会員には政府から俸給が与えらえた。しかしながら、俸給とはいえど生計を立てられるほどの額ではなかったため、他に仕事を持っていた会員が多かった。また、特別会員としてニュートンら外国人の会員ももっていた。アカデミーは幾何学天文学・力学・解剖学・化学・植物学の6部門からなり、各部門は正研究員3名・準研究員2名・助手2名から構成された。方法論的にはとくにベイコン的な実験科学が重視され、そのために高価な機材や設備も導入された。研究員は各自が選択するテーマにくわえて、政府から依頼されたプロジェクトに参画させられた。さらにコルベールの工場制手工業の育成策と相まって、織物・染物・陶器・高山・冶金などの技術の監督や改善にも携わった。また、国内の技術の特許はすべてアカデミーで審査された。このように王立科学アカデミーは、国家機関として実質的に旧体制下のフランスの科学界・技術界を支配する立場にあった。この独占的・閉鎖的なエリート主義に対してフランス革命以前から批判はあったが、中央政府に直接コントロールされたその科学体制はフランス革命後の19世紀まで尾を引き、フランス科学に独自の学風を植え付けることになる。
 
 ロンドンの王立協会とパリの科学アカデミーは、学会の二つの異なるモデルとなった。個人主義的・アマチュア的性格を持った王立協会は18世紀にイギリスやアメリカに誕生した私設の学会の原型となり、国王ないし国家主導型の科学アカデミーはヨーロッパ諸国に18世紀に相次いで設立された王立科学アカデミーのモデルとった。
 
 このように、17世紀以後の近代科学の活動の拠点となった学会を背後で支えたのは、世俗の新興富豪や君主、貴族であり、カトリック教会ではなかった。学会成立の背後には、それまでヨーロッパの政治や経済、文化を支配下に置いていた教会に対抗して、都市や国家における新しい主導権の担い手が台頭していたという事実があった。

古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第2章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

 【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第二章キリスト教文化における近代科学(南窓社、2001年4月)p33−p48

 

 ヨーロッパが様々な国や民族から成り立っていながら文化的統一性を維持していたのは、キリスト教という共通の宗教を基礎としていたためである。このキリスト教文化が持つ自然観は初期近代の科学と相互に関連していた。
 
 イギリスの思想家フランシス・ベイコンの科学観は、同時代にとどまらず後世の人々に対しても様々な意味で絶大な影響を与えた。ベイコンの著書である『ノヴム・オルガヌム』は、新しい科学の方法と役割を体系化した彼の業績を象徴している。そこには、「技術としての科学」「技術のための科学」というスローガンが込められていた。そのスローガンには、科学とはそれまでのスコラ学のように学問に終始するものではなく、自然を支配し変革して人間生活の改善を目指すための営みであるという意味がこめられている。それゆえベイコンにとって、アリストテレスの哲学よりも職人たちの技術の方が、人間が自然を利用し搾取すること、すなわち自然を支配することに貢献してきたのだ。
 
 人間による自然のコントロールという姿勢をもつベイコンは、科学のあるべき方法として、一般原理から個々の現象を説明する演繹法に代わって、実験や観察による膨大なデータから公理を導き出す帰納法を強調した。また、このベイコンの思想に依拠したベイコン主義は、実験や観察のみを科学の出発点とすることから今日批判されているが、ベイコン本人は漠然と無闇に実験をするのではなく、組織化して方向付ける必要性を強調していた。このようなベイコンの実験的手法は、ボイルの新実験哲学からもみられるように、17世紀以降の多くの自然探求者の科学活動の指針となった。そしてそれが洗練され精緻化し諸領域に適用され実を結んだのは、18世紀以降のことであった。
 
 ベイコンの思想に見られる自然に対する姿勢には特徴がある。それは、主体と客体の分離、自然支配、自然改造の概念である。しかしこれらは、ベイコン独自のものではなく、むしろこの時代の自然探求者の特徴を定式化したものであるとも言える。また、ベイコンが新しい科学の目的と方法を記述するのに用いた表現スタイルやレトリックは、本来彼の専門であった法律のそれと重なっていた。
 
 イタリアの歴史家ロッシの研究は、歴史家がそれまで無視してきたルネサンスの魔術とベイコンとの深い関わりを明らかにしている。ルネサンスの魔術思想は、新プラトン主義やヘルメス主義やカバラ主義と混合して発展した思想で、自然を神から与えらえた隠れた力をもつ存在とみなした。ロッシによればベイコンは、ルネサンス魔術思想からつよい感化を受け、そこから自然の力を知ることにより世界を支配する術を獲得しようとする観念を汲み取り、それをキリスト教のもつ神・人間・自然の関係の思想の基盤に乗せたという。ベイコンは後に魔術の批判者に転じたが、その要素をキリスト教的世界観に組み入れて新しい科学観・自然観に転換したといえる。
 
 またベイコンが主客の分離が可能だと考えたのは、キリスト教の教義に基づいたためであった。そのため、人間は特別な存在であり、人間の下に自然があって、人間は自然を知ることによって支配できると考え、よって科学活動は信仰活動であると捉えていた。当時多くの自然哲学者は、このようなキリスト教的自然観を共有していた。その中でのベイコンの立場は、自然探求によって神の偉大な力を知ることはできるが、被造物の考察自体からは神の本質や属性を知ることはできないというものであった。またベイコンは、自然解釈が過度に働くことによって、信仰の心理が侵食されるおそれがあることを危惧した。いかなる自然の知識も、聖書の前では無力であると考えたためである。後のベイコン主義者と違うのは、ベイコン本人は信仰と科学を分離していたということである。結果的にキリスト教的自然観を反映したベイコンの科学の方法と理念は、逆説的に科学が神離れしやすい要素を内包することとなった。
 
 科学社会学の祖であるアメリカのマートンは、著書『17世紀の英国における科学・技術・社会(1938年)』において、キリスト教的自然観の普及と科学の興隆を宗教革命、とりわけイギリスにおけるピューリタン革命(1642年から49年)とを結びつけて論じた。ピューリタンは、その信仰や生活態度が功利主義・経験主義・理性主義といったエートス(価値観、倫理観、信念の総称)をもっていた。ピューリタンは、絶え間ない努力によって現実の社会や自然を作り変え、悪や欲望を征服しようと目論んでいた。つまり、ピューリタンにとって自然を研究することは、神の知恵と力と善を理解するための有効な手段であったのだ。そのために、実験や観察などの理性を用いる作業が重視された。これは、ベイコンの科学観すなわちこの時代の新しい科学観と一致した。よって、ピューリタンの台頭により科学活動が活発化することとなり、17世紀科学興隆の大きな要因となった。これらの事実を示すためにマートンは、17世紀当時の自然探求者の中のピューリタンの割合を統計データで示した。この手法は、科学史や知識社会学の研究において多くの人物の履歴・伝記を調査し、その中になんらかの共通項を探し出す手法すなわちプロソグラフィーの先駆となった。
 
  その後、以上の「マートン・テーゼ」をめぐって学者間で賛否両論が巻き起こった。ピューリタンエートスは当時の科学のエートスから影響を受け、またはその逆もあったという、どちらの面も持つ切り離せないものであったためである。すなわち、この時期の信仰と科学活動の動機は深く関わりあっていたのだ。マートン・テーゼが確かに明らかにしたことは、プロテスタンティズムの改革運動の流れの中で、ベイコン的科学観が社会に受容されるようになった事実である。ひとつ留意しなければならないのは、マートンが論じたのは17世紀イギリスに限定した話だったということである。観察・経験を重んじた科学は他のヨーロッパの国々にもみられ、また、プロテスタント系科学者とカトリック系科学者の間に思想的な相互影響があったことも見受けられる。そのため、マートンのいう「イギリス的エートス」はピューリタンプロテスタントだけの物ではなく、むしろ「クリスチャン・エートス」としてキリスト教全般のエートスが科学活動を促していたとして捉えるべきものであった。
 
 キリスト教の教義に根差した科学活動が展開される17世紀当時の自然探求者の神と自然に対する基本的な考えを、イギリスのティムが1612年に書いたある一節が端的に物語っている。そこではすなわち、「創造主は二つの重要な書物を我々に差し出した。自然という書物と、聖書である。」ということが語られている。このようなキリスト教信仰の上での動機から、神の示す第二の書物すなわち自然の探求に駆られて科学活動が行われた。多くの自然探求者による科学活動の思索の根底には、神の概念があったのである。これは我々現代人が持っている科学観とは異なる。例えば、ケプラーガリレオにとって、神は偉大なる数学者であった。よって、自然の背後には数学があり自然現象は数学によって解明できると考えた。現代では疑念すら持たれなくなったこの視座は、もとはルネサンスで復活したプラトン思想に1つ着想のルーツをもっており、これは近代ヨーロッパの文脈においては信仰と調和して発展することとなった。
 
 17世紀の自然観を代表する機械論哲学は、科学革命期に台頭した思潮で、ボイルによって命名された。機械論哲学は、神の世界創造、主体と客体の分離、人間の自然支配、これらの思想と整合する世界観であり、世界全体を神が創造した巨大な機械と捉えた。よって、既存の機械やそのモデルとの類比によって、機械と同様の原理をもって自然現象を解明しようとしたのである。この時代の自然探求者たちはこの機械論的アナロジーに基づく世界観を供給しており、また、数学的世界観とこの機械論的世界観の両方を併せ持っていたものも多い。機械論哲学の代表者であるボイルは、この世界を17世紀当時最も精巧の機械として知られていたストラスプールの大時計にたとえて、時計の製作者と世界の創造主である神をつなげてとらえ、称賛した。また近代合理主義の祖であるフランスのデカルトは、機械論的なアナロジーを聖域とされていた人体にも適用した。デカルトによれば、人間は神が創造した最も精巧な機械であった。
 
 機械論には、生物体を生命を持たない不活性な物体からなる機械の集合体とみなして、その物体の機械的・力学的運動からのみ体内の諸作用を説明しようとする姿勢があった。こうした視座は、全現象を究極的粒子の運動や衝突からのみ説明する古代原子論の影響を受けている。無神論的彩色の強いこのギリシア原子論も、この時代にはガッサンディらによってキリスト教化されていた。機械論においてアトムという語の使用は避けられ、あえて「粒子哲学」という異名がつけられた。ボイルによって広められたこの西欧版原子論は、機械論哲学と一体化していた。機械論哲学はまた、自然魔術に対する対抗文化として登場した側面もある。当時の知識人にとって機械論哲学の魅力のひとつは、その論理的明快性にあった。身近な生活の中にある機械と関連付けることで、思い描きやすかったのである。その意味で、それまで中世の自然学を支配してきたアリストテレス的な抽象概念の世界とは極めて対照的であった。また機械論哲学は、神を世界の製作者として讃えることができたことも、キリスト教を信仰していた当時の知識人にとって魅力的であったといえる。キリスト教の霊魂不滅の教義に従ったデカルトの機械論的アナロジーはそれゆえに感覚どまりであり、精神作用にまでは及ばなかった。この意味でデカルトの人間機械論は、正確に言えば「身体機械論」であり、そこでは主体たる精神と客体たる機械的自然の分離が維持されている。こうして機械論は西欧近代科学の基本的な認識論の一つとして強化されいった。そしてその流れは20世紀の人工知能研究へもつながっていくこととなる。
 
 以上のように、主客の分離、人間の自然支配、実験、法則性の発見、数学的自然学、機械的世界像等の、今日の科学が諸要素はヨーロッパ固有のキリスト教的自然観と深い関わりを持っていた。そしてこのような自然観は西欧特有のものであった。それは、錬金術の思想からみる西洋と東洋の自然観の違いにおいても明らかである。錬金術の目的は、西方と東洋では大きいく違った。初期ヨーロッパ系錬金術の目的は、卑金属を貴金属の金に変えて富財をなすことであった。対して中国の錬金術では、不老長寿をもたらす金、すなわち丹とよばれた薬の探求がなされていた。また東洋においては、人間が自然と融合することに大きな価値が置かれ、人間と自然を故意に離反・対立させる西欧的枠組みは希薄であった。このように、今日普及している科学は、西欧固有の文化的土壌で育まれた特異な科学であったことを留意すべきである。