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古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第1章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第一章二つのルネサンスから近代科学へ(南窓社、2001年4月)p19−p32

 

 16世紀から17世紀のヨーロッパにおいて、近代科学の基盤がつくられた。宇宙観や人間の自然における位置の概念が一新されたため、この時期を「科学革命」と呼ぶことがある。このような呼称は、18世紀のフランスの啓蒙主義者たちによって最初に表現され、後にイギリスの歴史学者バターフィールドの著書『近代科学の起源』によって歴史用語として定着したとされている。科学革命が起こったとされる年代に統一した見解はないが、コペルニクスの『天球の回転について』やヴェザリウスの『人体の構造について』が出版された1543年を起点とし、ニュートンの『プリンキピア』が出版された1687年を完結点とする場合が多い。
 
 近代科学は、多くの面でギリシア科学を土台としている。しかし、この古代ギリシア時代からヨーロッパ近代の間には千年以上の期間があり、そのためヨーロッパにおいてギリシア科学は中世後期まで忘れ去られていた。その後、ヨーロッパがそのギリシア科学を再発見し復活させた時期が2回あった。一つが「12世紀ルネサンス」と呼ばれる時期であり、もう一つが14世紀から15世紀に起こった「ルネサンス」である。
 
 12世紀ルネサンスではヨーロッパにアラビア科学が受容され、アラビア語の数々の書物がヨーロッパの共通学問言語であったラテン語へと翻訳されていった。これによって、医聖ヒポクラテスや万学の祖アリストテレス、数学者エウクレイデス(ユークリッド)、天文学者プトレマイオス、医学者ガレノスら古代ギリシア人たちの著作がヨーロッパに続々と紹介された。とりわけアリストテレスがヨーロッパの知識人たちに与えた影響は大きい。アリストテレスの著作としては、彼がつくった学校であるリュケイオンの当時の学頭アンドロニコスが、紀元前1世紀にアリストテレスの議事録を元に主題別に編纂した『アリストテレス著作集』があげられる。その主題には、『分析論前書』、『分析論後書』、『自然学』、『霊魂論』、『生成消滅論』、『天体論』、『気象学』、『形而上学』がある。これらの著作は、イスラム学者たちの注釈と一緒に、ヨーロッパの学者たちによってラテン語に訳された。
 
 13世紀になると、ドミニコ会士の聖トマス・アクィナスらによってアリストテレス哲学とキリスト教教義が融合され体系化し、「スコラ哲学」がうまれた。これは大学の主要な学問として扱われたが、信仰すなわちキリスト教教義と理性すなわちアリストテレス哲学のどちらを優先すべきかについて論争を巻き起こしていた。とりわけイスラムの哲学者アヴェロエスの解釈とキリスト教教義との間に矛盾が生じていた。そのためパリ大学内部では、このアヴェロエスの注釈を支持する学芸学部を中心とした「ラテン・アヴェロエス主義」と、それまで絶対視されてきた聖書の教えを尊重する神学部との間で論争がおこった。神学部が問題視していたアヴェロエス主義の内容のひとつに「二重心理説」がある。これは、哲学上の真理と信仰上の真理が矛盾した場合、両者共に認めるという立場であった。ほかには、アリストテレスの「世界の永続性」の概念がある。これは世界には初めも終わりもないとする考えであり、このことは神の天地創造を否定するものとして強く反発された。パリ大学の神学部教授であったトマス・アクィナスは、反アヴェロエス主義の側に立った。このパリ大学内の学芸学部と神学部の対立は発展し、1277年にはパリ司祭のタンピエによって断罪された。それはすなわち、アヴェロエス派が主張する219箇条の命題について、そのいずれか一つでも弁護する者は破門に処すという布告であった。このパリでの断罪の件は、アリストテレス解釈の多様化を促し、14世紀の知的風土を生み出すこととなった。
 
 第二のルネサンスである「イタリア・ルネサンス」は、14世紀イタリアのトスカナ地方の都市共和国フィレンツェが中心であり、大富豪のメディチ家がその熱心なパトロンとなっていた。12世紀ルネサンスイスラム世界から入った古典学芸をアラビア語を介して復興した運動であったのに対し、イタリア・ルネサンスはギリシアやローマの原典を広範から収集し原語からラテン語訳をして厳密に研究したことに特徴がある。とりわけ、1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル陥落時にギリシア語の古写本がフィレンツェに大量に持ち込まれた。また、ヨーロッパ各地の修道院に伝わる古写本が大規模で調査されたことも、古典学芸の広範な収集活動の一つであった。これを契機に、プラトン哲学やヘルメス思想、原子論やギリシア数学など、12世紀ルネサンスでは蘇らなかったギリシア思想が復活することとなった。またこれらは、科学革命の特徴の一つであるスコラ的アリストテレス主義の棄却を促す対抗的思想となった。
 
 コンスタンティノープルからの亡命学者プレトンは、メディチ家の統領コジモ・メディチの保護のもと、1443年にフィレンツェにてアカデミア・プラトニカという学者の研究機関を創設し、プラトン哲学やヘルメス思想の復活に努めた。ここで、わずかしか知られていなかったプラトンの著作が原文で研究されることとなる。アカデミアの学頭でコジモの侍医であったフィチーノは、1484年にプラトンラテン語版全集を出版した。またフィチーノは、1460年にマケドニアで発見された『ヘルメス文書』のラテン語訳『ヘルメス大全』を1484年に刊行した。ヘルメス文書とは、紀元前3世紀から紀元前3世紀にかけてエジプトで書かれたヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる神の教えと伝えられる文書群である。その思想は、魔術や宇宙論占星術錬金術を取り込んだ深遠なものであり、ルネサンス人を魅了した。また、コペルニクスパラケルスス、ディー、ブルーノ、ケプラー、ファン・ヘルモントらに大きな影響を与えた。
 
 レウキッポスとデモクリトスによる古代初期の原子論の存在はアリストテレスの著作を通じてすでに知られていたが、その学説を正統に継承したギリシア後期のエピクロスやローマの詩人ルクレティウスの原子論思想はこのイタリア・ルネサンスの時期に蘇った。ルクレティウスの思想は1417年に彼の叙事詩『事物の本性について』の写本をポッジョ・ブラッチョリーニによって修道院から発見されることによって、エピクロスの思想は後期ギリシアの哲学者ディオゲネス・ラエティオスの『著名哲学者の生涯と教説』に引用されていたことから、ルネサンス人の目に止まることとなった。このラティオスの著作は、1431年にトラヴェルサリによってラテン語に訳された。17世紀になると、このラテン語訳をもとにフランスのガッサンディエピクロス的原子論をヨーロッパ広範に普及することとなる。
 
 イタリア・ルネサンス以後、科学が途切れることなく確実に伝承され、また学問が比較的広い層に行き渡ることになる背景には、印刷技術の発展と普及があげられる。12世紀ルネサンスでは口述文化・写本文化であったが、15世紀中葉にドイツのマインツグーテンベルク活版印刷を発明し、15世紀中頃までには製紙術が羊皮紙より安価な麻布を原料として確立されたことによって、広範囲にそして急速に知識が伝播することとなった。一方洋の東、中国では、その700年前である8世紀初頭の唐の時代には、すでに木版印刷が発明されていた。
 
 西欧の自然探求者たちは、このイタリア・ルネサンスで蘇った古代思想を拠り所として、彼らの時代の価値観と調和させながら新しい世界観を築き上げた。16世紀以降出現した「数学的自然観」「新実験哲学」「粒子哲学」「機械論哲学」など、西欧近代科学を特徴づけるこれらの自然認識は、イタリア・ルネサンス時代のギリシア著作の復活に源流を持つ。数学的自然観はプラトン思想と、新実験哲学は部分的にヘルメス主義と、粒子哲学や機械論哲学は古代原子論と、深くか河内あっている。これらの思想は相矛盾する面もはらんでいたが、アリストテレス主義の対抗思想となった点で共通している。またこの時代には、アリストテレス思想自体についても中世とは違った解釈が生まれるようになった。その理由としては、ギリシア語の原典や古代人の注釈書から直接研究し直されたことがあげられる。
 
 ルネサンス運動のベースとなった人文主義は、古典の収集や模倣、文献学的研究によって古代文化を再生し、それを手本として封建社会から人間性を解放・復興させ、個人としての自我の自覚をはかろうとする思潮であった。これを標榜する人文主義者たちは、スコラ学や既成の大学、教会の権威を批判する勢力となり、当時の社会を批判した。しかし現実には、イタリア・ルネサンスのもつ貴族的性格から、直接社会を変革するには至らなかった。
 
 古代とルネサンスとの間にある「中世」という時代区分は、人文主義者たちのルネサンス的価値観に基づく歴史意識から芽生えたものである。普通4世紀初めのコンスタンティヌス帝の時代から15世紀中葉のコンスタンティノープル陥落までをさすこの「中世」は、18世紀の啓蒙主義の興隆によって暗黒時代という印象をさらに強調されるようになる。とはいえ、古代人の英知から真理を学びとることができるという信念に裏付けされたこの熱狂的な復興運動は、結果的に西欧世界に大きな知的転換を招く一つの背景になったのであった。