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BHセミナー「『科学革命』を読む」第6回レジメ

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p -p

【第六章 科学の世界を組み立てる】
後期中世から現代に至るまで、科学は研究や知識の蓄積にとどまらず、その応用に関心が向けられ、実行されてきました。そしてそのことは、人間の日々の世界を根底から変えることとなりました。科学革命期である16・17世紀は、特に強く関心が向けられた時期でした。
 ルネサンス期のイタリアでは、古代の知が見直され、都市の改良や整備に活用されました。その背景には、実際の経験に頼る職人と、実際の事柄からは隔たってきた学者との間に生まれた、新興階級の存在がありました。その新興階級に属するのは、実際の問題を解決するために数学を用いた分析を行う人々です。その中に、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオがいました。彼らは、古代人を意識していました。
 科学革命期当時の知識と古代の知識を結びつけて応用した例は、他にもあります。15世紀半ばから16世紀半ばにかけておこった採鉱ブームによって得た知識を整理して発展させた人物に、ドイツの人文学者で教育家のゲオルギウス・アグリコラがいます。彼は、著書『デ・レ・メタリカ(金属について)』の中でドイツの採鉱の慣行と古代の文献を結びつけただけでなく、冶金学のためのラテン語の語彙を作り出し、卑しい事業とされかねない採鉱業の品位を高めようと奮闘しました。地図制作の発展においては、15世紀に再発見されたプトレマイオスの『地理学』が、応用されました。また、実際的な問題に科学技術を応用する際、科学的知識の発見が活用されていました。航海において重要でありながら不十分であった経度の決定のために、天体観測によって得た知識を用いる試みがなされていたのです。
 このように、科学技術の応用と科学的発見は、分かちがたく結びついていました。そしてその発展の推進力として、軍事や経済、産業、医療、社会政治などからの実質的な要請があったことが重要なものとしてありました。
 科学技術の応用と科学的発見に深く関連する人物として、フランシス・ベイコンがあげられます。ベイコンは、自然哲学的知識は利用されるべきだと主張します。そのための方法として彼は、自然誌の編纂と、自然現象や実験などの観察結果の収集とその定式化を提唱しました。そこで得た理論を、利益を生むために用いるべきだとしましたが、その思想的背景には単なる功利主義とは異なる性質の目標がありました。それは、創造のときに神によって授けられながらアダムの堕落とともに失った人間の力と、自然に対する人間の支配を取り戻すというものだったのです。ベイコンはさらに、自然哲学の方法や目標を定めるだけでなく、その制度的・社会的構造まで構想していました。彼の構想は、社会の中で不安定な地位にいた17世紀の自然哲学者たちを鼓舞するものでした。
 現代の科学をとりまく制度的・社会的構造は、ベイコンの構想していたものをいくつか備えています。すなわち主なものとして、研究を行う物理的な場所、科学者同士が交流する社会的空間、そして研究のための資金を援助してくれる後援の存在です。これら三つの特徴は、現代の科学が帰納する上で不可欠なものであり、科学革命期に学会という形をもって確立しました。
 最初期の学会に、「山猫アカデミー」があります。数える程しかいない会員の中には、自然魔術の主唱者ジャンバッティスタ・デッラポルタやガレリオ、ヨハン・シュレックが含まれていました。個人の活動や研究から共同で行ったものなど、活発に活動は行われていました。1630年にアカデミーの創設者で貴族のフェデリーコ・チェージが亡くなったことで指導者と後援者を失った山猫アカデミーは解散へと向かい、設立から30年ほど経ったのちに解散します。
 1657年には、メディチ家の宮廷で「実験アカデミー」が設立されました。その関心は、実験を行うことに集中しており、設立から閉鎖までの10年間の活動の中で、共同で実験を行う場としての学会という形を確立しました。17世紀半ばまでに、学会はアルプスの北へと広がります。1652年にドイツで「自然探求者アカデミー」が結成されました。多くの会員をもつこととなるこのアカデミーで会員同士を結びつけていたのは、会員が寄稿した論文を集めて発行された「年報」でした。このアカデミーは、最終的にこんにちの「ドイツ国立学術アカデミー・レオポルディーナ」に発展しました。
 1650年代にオックスフォード大学で「実験哲学クラブ」といて知られるグループが会合を始めました。その活動は、自然哲学について議論し、機械装置を用いて実験し、解剖を観察することでした。1662年に王の認可状を受け、「ロンドン王立協会」として今日まで存続しています。その会員には、クリストファーやロバート・フック、ロバート・ボイルやニュートンも含まれていました。ベイコンの構想をその模範とし、国内にとどまらず海外からの報告や書簡も共有していた王立協会は、イギリスのほぼすべての著名な自然哲学者が会員であるほどにまで発展し、活発に活動が続けられていきます。しかしながら、重要な会員の喪失や財政的困難による活動の縮小という、初期の学会に共通した悩みをもっていました。また、協会外部からはけして良い目で見られているというわけでもありませんでした。そのような困難をかかえながらも、18世紀半ばには、組織としてしっかり確立され、活動を続けていくこととなります。
 下から上へ創設された王立協会とは異なり、上から下へ設立されたのが、「パリ王立科学アカデミー」です。ルイ14世の財務総監ジャン=バティスト・コルベールによって、ある意図のもと設立されました。その意図とは、学芸を後援することで王の栄光を付加し、国家に有益となるように科学的活動を中央集権化することでした。アカデミーの会員たちは、国家的問題に科学的解決を与えることを期待されました。そのための設備や施設が王の後援によって設立され、会員たちには棒給と研究の援助が与えられました。これは、ベイコンの構想をうまく実現させたと言えます。また、王の援助のもと、パリ・アカデミーは、海外への調査におもむくことも可能となりました。その中で、地球の正確な形状を観測と測量をもって調べたり、異国の情報の収集を行いました。
 1700年以降、科学アカデミーは急増し、その範囲はヨーロッパにとどまらず北アメリカにまでおよびました。国の誇りと成果の象徴となったアカデミーの他にも、ときに同じく重要でありながらもっと非公式な社会集団が存在しました。パリにおいては、個人の邸宅や公的な場所で開かれる「サロン」が、それにあたります。主催者の統率のもと、議論や会話、論争をするために人々が集いました。ロンドンでは、コーヒーハウスが様々な人との出会いと、自然哲学的な問題を含む多様な問題を議論する場を提供しました。そのような公衆の関心は、公開実演者の出演を促し、そこに集まった大衆は自然哲学者であり興行師である彼らから、娯楽と教育を享受しました。これら直接会って交流する場だけでなく、文通によるネットワークもまた重要でした。文通によって、同じ意見をもつ思想家たちを、国や言語、宗派の違いを超えて結びつけました。また、アカデミー自体、こうしたネットワークの結節点となっていました。
 17世紀に技術的応用の重要性が増大したおかげで、科学探求の専門化が進行し、アマチュア自然哲学者がゆっくりと消滅していきました。科学の専門家を育成するための訓練の場は大学に用意され、19世紀には職業としての科学者が明確に出現することとなります。