橋本毅彦著『〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで』第1章

 

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

〈科学の発想〉をたずねて 自然哲学から現代科学まで (放送大学叢書 12)

 

 【第1章 西洋科学の精神】

《概要》

 西洋科学の営みにおいて、新発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認・非承認を受ける。一方東洋においてこの科学的大気は発生しなかった。その事例として、コッホによる日本の西洋医学についての批判があげられている。なぜ東洋科学は西洋科学の営みと異なるのか。それについてアルバート・アインシュタインは、古代ギリシアから時を経てこの科学的大気が西洋で醸成されてきたこと、それ自体が驚くべきものであると述べている。

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 西洋科学の精神は2000年かけてつくられたものであり、一生かけてそれを習得していくのだと主張したのは、ドイツの医学者エルヴィ・フォン・ベルツであった。彼はお雇い外国人として日本に長期滞在し、西洋医学教育を行った。日本は科学的理論の輸入はしたが、その精神は持込きれてないと指摘していた。彼の言う西洋科学的精神を学んだ人物として、1890年に破傷風の病原菌を発見した北里柴三郎があげられる。北里は東京医学校を経て内務省衛生局に勤務し、1888年にベルリンの帝国衛生院へ留学した。留学先で師事した細菌学の父ロベルト・コッホから、この西洋科学的精神を学んだことが垣間見れるエピソードがある。すなわち、北里の先輩であり指導者であった緒方正則が脚気の病原菌を発見したとき、北里はコッホに促されてその吟味に取り掛かったところ、その発見が誤りであることがわかった。その指摘を公表することにためらいをおぼえたものの、科学研究における論理は私情を超えたものであるとコッホに説かれ、公表したという。北里の師コッホは、黴菌病因説を唱えた人物であった。コッホは新しい病原菌が発見されるには、その病原菌が、①当該病気の体内に規則的に見出されること、②病状のないところには見出されないこと、③培養された数世代後の菌でも同じ病気が生じること、という「コッホの条件」とよばれた三つの条件を提示した。この研究の背景として、顕微鏡の性能が向上による微生物研究が発達がある。微生物研究の代表的な人物として、生物学者ルイ・パストゥールがいる。彼は、微生物が発酵現象に関与していることや、無機物からの自然発生でなく親や胞子から生まれることを示した。細菌という微生物が病気の原因であると考えたコッホの元で学ぶことを希望した日本人に、軍医本部長の石黒忠悳がいる。彼はミュンヘン大学にて医学者マックス・フォン・ペンテコーフェルの下で学んでいたが、北里と交代する形でコッホの下で学ぶことを希望した。ペンテーコーフェルは、ミアマス病因説を主張していた。19世紀半ばまで有力視されていたこの説は、病気の原因は不衛生な環境の害毒(ミアマス)によるとするもので、コッホの黴菌病因説と根本的に異なる説であった。その故もあり、北里はミュンヘン行きに対し反発していた。この北里と石黒を仲裁したのが、石黒に同行していた森鴎外こと森林太郎であった。森のはからいにより、北里はベルリンに滞在し続けることとなった。

 科学の営みにおいて、新たな発見は発見者自身によって検証され批判的に吟味されるだけでなく、他の科学者によっても検討され、承認を受けたり退けられたりする。このような科学研究の進め方は古代ギリシアからはじまり、ダーウィンやレントゲンへと流れていき、西洋科学の精神的大気を醸成した。しかしながらなぜ、西洋で生まれたこの科学的大気は東洋で生まれ育まれなかったのか。このことを友人から問われた物理学者アルバート・アインシュタインは、東洋に科学的大気がないのはおどろくべきことでなく、西洋に科学的大気があることこそおどろくべきことであると語った。このアインシュタインの言葉を引用して、科学史家のチャールズ・ギリスピーは、オリエント文明は技術や魔術以上の事物一般へまで好奇心が及ばなかったのだと言及した。ギリシア人による神話から知識への転移が、哲学だけでなく科学の起源であったのだ。

古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第3章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

  【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第三章大学と学会(南窓社、2001年4月)p49−p65

 
 16−17世紀において新しい学問である近代科学が誕生したのは、大学の外においてであった。当時から今日まで学校という組織は、既存に確立されているある時代に支配的な枠組みすなわちパラダイムを、次世代を担う学生たちに伝授していくことでその後継者を拡大再生産するという保守的な機能を担っている。16−17世紀当時の学問のパラダイムは、スコラ学であった。スコラ学は中世後期から近代初頭までに確立し、カトリック教会の公認を受けて大学と教会に支えられていた。
 
 14世紀にはオートルクールのニコラのように、大学人でありながらアリストテレス主義に反旗を翻した者もいたが、結果として彼はパリ大学を放逐されることとなった。このようにキリスト教会から思想的理由で異端の烙印を押された学者は少なくなかった。ブルーノは投獄の末に火刑に処され、コペルニクスの著作は教会史上初の禁書目録入りとなった。ガリレオと教会の対立は単純に科学と信仰の対立と捉えがたいが、ガリレオがローマ教会公認の天動説に背いたことから教会に裁かれたことは事実である。教皇庁のこうした処置は、反宗教改革の気運の中で政治的権威を堅持する意思表示でもあった。ヨーロッパの大学は、その起源からカトリック教会と不可分の関係にあった。初期の大学の教師はほとんどが聖職者であり、学生の大半は教会関係の仕事に就くためにそこで学んだ。ガリレオの時代までには大学の世俗化が進み、聖職のための機関という性格は弱まり始めていたが、学問的にも制度的にも教会の統制を受ける状態は消えていなかった。よってこのような風土をもつ大学という舞台において、新しい学問である近代科学は萌芽し得なかったのである。
 
 大学の起源は、12世紀ルネサンスの大翻訳運動まで遡る。それ以前の教育の場といえば修道院や司教座聖堂付属学校であったが、12世紀という知的高揚に満ちた特異な時代背景から、大学という新しい機関は生まれた。その役割は、アラビア世界から西欧に流入した膨大な量の新たな知識を研究し、発展させることにあった。大学、すなわちユニバーシティの語源であるラテン語のウニヴェルシタスには、教師と学生によるギルド的組合の意味がある。それは、大翻訳運動の最中に都市にて自然発生した私塾などの教師と学生が、自己の生活を外部から自衛するために、一般の手工業者の同業組合にならって組織したギルドが発展した機関である。大学の入学資格には年齢や学歴による制限はなく、教授会の認定で入学や卒業が決められた。ローマ教皇庁もその保護に積極的に加わったが、大学の運営は基本的にカトリック教会と深く結びついていた。教皇庁は世俗権力や各地の教会に対する優越をめざし、くわえて思想的統制をはかるべく大学を支配下に置いていた。教師は聖職者で占められ、また聖職者の養成が大学の重要な使命であった。宗教改革を経て各大学は宗教的色彩を強めることとなる。くわえて世俗権力の台頭と国権の強大化に伴い、国家の官僚を養成することもまた大学の大きな使命となった。1500年までの間にヨーロッパの諸都市では相次いで大学が創設されたが、今日に残るヨーロッパの大学の多くはこの時期に創設されたものだ。中世後期において科学を含むほとんどすべての知的活動は、これら大学の中で行われた。くわえて中世科学を代表する学者はみな、当時のパラダイムであるスコラ学の学者であった。
 
 中世の大学の上級学部には、神学・法学・医学の3つの専門過程があり、聖職者・法曹家・医師の養成を行っていた。この形は19世紀前半まで続いた。科学が大学で正規の専門教育として取り入れられるのは、19世紀以降のことである。中世の大学では専門に入る前の一般教育の場として学芸学部が設置されていた。哲学部と呼ばれることもあるそれは、中世の修道院付属学校や司教座聖堂付属学校以来の伝統的カリキュラムであった七自由学芸が踏襲されていた。その内容は、文法・修辞・弁証術の三科と算術・幾何学天文学・音楽の四科からなり、いわば実用教育に対する人間形成教育・教養教育であった。中世の大学では、神学や法学などの専門課程だけでなく、学芸学部においてもアリストテレスの学問が浸透していた。すなわち、大学の学問の柱はアリストテレス学であり、学者集団はそれを教授し維持することを使命としていたのである。そしてこの傾向は、科学革命期の大学においても実質的に変わりはなかった。
 
 新しい学問である近代科学の活動の場とされたのは、大学の外に成立した新しい学者の共同体、すなわち学会であった。学会の起源はイタリアルネサンス人文主義運動とかかわりがある。学会の支援者は、教会の対抗勢力として都市の政治や経済を牛耳るようになった世俗の富豪たちであった。15世紀前半にメディチ家の保護を受けて設立されたアカデミア・プラトニカ設立以後、イタリアでは多くのアカデミアが乱立した。その中で植物学者であったチェージ公自ら1603年にローマに設立した「アカデミア・デイ・リンチェイ(山猫アカデミア)」は、自然の探求を共通目的とした最古の学会の一つである。ガリレオもその会員として活躍し、『太陽黒点論』と偽金鑑識官を意味する『イル・サジアトーレ』の二冊の書物を同会から出版した。1657年にはフィレンツェメディチ家パトロンとした「アカデミア・デル・チメント(実験アカデミア)」が創設され、ヴィヴィアーニを始めとするガリレオの弟子たちが中心となって活動した。ここでは様々な共同実験が行われ、その成果は『サッジ』という自然についての実験論文集にまとめられた。しかしながらイタリアに誕生したこれら「ルネサンス型アカデミア」は、いずれも短命であった。なぜなら、これらの集まりは小規模かつ私的・社交的な集まりであり、パトロンが亡くなるとともに解散してしまうすケースが多かった。フランスにおいてはメルセンヌを中心としたサークルが生まれ、書簡のやり取りを通してヨーロッパ中の自然探求者の情報交換の場となったが、やはり彼の死をもって自然消滅してしまっている。しかしながら、ロンドンに誕生した王立協会は、これらをはるかにしのぐ学会であった。
 
 今日に続く最古の歴史を持つ科学の学会であるロンドン王立協会の創立と活動は、ベイコンの学問革新論と深くかかわっていた。ベイコンにとって知識は力であり、これによって自然を服従させ、意のままに役立たせることができた。そのために観察や実験によって自然現象についての知識を出来る限り多く集めなければならなかった。それには、自然探求者の共同作業が必要になると考えられた。ベイコンが執筆した科学のユートピア的小説『ニュー・アトランティス』の中で彼が描いた「ソロモンの家」は、この目的達成のために作られた学者の共同体であった。この発想に刺激を受けて生まれたのが、王立協会である。王立協会には、ボイルを中心とした「見えない大学」と称する非公式なグループやグレシャム・カレッジの有志が集まり、1662年に国王チャールズ2世の勅許を受けて「自然についての知識を改良するためのロンドン王立協会」という正式名称で発足した。王立と冠しながらも、その実際は私立の学会であった。イギリスでは多くの場合、「王立」とは王室から権威の象徴として名目的に認可された冠称に過ぎなかった。ゆえに共同出資制をとったため、結果的にパトロン個人に左右されない安定性をもっていた。私設であった王立協会は。それゆえ個人主義的・アマチュア主義的体質をもっていた。また、興味を持つ者に広く門戸を開いたため、実際には研究活動をしていない名目的な会員が多数選出され、会員の大半を占めることとなった。彼ら名目的会員たちは財政をうるおすとともに、協会の社会的威信を高めるという利点があったために歓迎された。
 
 王立協会は、ベイコンの理念に従い、自然の観察や実験を通して得た新知識を持ち寄って論じ合うことに重きを置いた。1665年には、書記のオルデンブルグによって学会の成果の発表の場として、機関誌『フィロソフィカル・トランザクションズ(哲学紀要)』が創刊された。これが今日まで続いている最古の科学雑誌である。これは迅速な研究結果の発表メディアという機能を備え、今日の学術雑誌の先駆となった。この王立協会には、創立時からベイコン主義者であるボイルがかかわっていた。また、ニュートンの活躍の場は大学よりもむしろ協会であり、ここで『プリンキピア』などの主要著作を出版し、晩年には長くその会長を務めた。フックは1663年より協会の実験責任者となり、積極的に公開実験を行った。
 
 フランスでは1666年にパリで王立科学アカデミーが誕生した。この学会の創立理念もまた、ベイコンの思想と深くかかわっていた。王立科学アカデミーは、ガッサンディホイヘンスが活躍して脚光を浴びていたモンモール・アカデミーの会員によって科学の研究に国家の援助が必要であることが政府に訴えられ、ルイ14世に仕えていたコルベールの力を得て、ロンドンの王立協会創立から4年後にパリで創立された。王立協会と同じくベイコン主義に従い、科学研究の社会的有用性を主張した王立科学アカデミーは、技術的生産性を優先させる重商主義政策を推し進めようとしていた財務総監コルベールの政策とも合致するところがあっただけでなく、ルイ太陽王の威光を全ヨーロッパに誇示するためにも有用であると判断され、科学と技術の公的諮問機関として発足することとなった。
 
 王立科学アカデミーの気風は、イギリスの王立協会とは極めて対照的であった。王立協会が比較的多様な社会階層に門戸を開いた私立団体だったのに対し、王立科学アカデミーは選ばれた少数の科学者から構成された国家直営の王立研究所であった。政府からの財政援助のもとに研究が進められ、会員には政府から俸給が与えらえた。しかしながら、俸給とはいえど生計を立てられるほどの額ではなかったため、他に仕事を持っていた会員が多かった。また、特別会員としてニュートンら外国人の会員ももっていた。アカデミーは幾何学天文学・力学・解剖学・化学・植物学の6部門からなり、各部門は正研究員3名・準研究員2名・助手2名から構成された。方法論的にはとくにベイコン的な実験科学が重視され、そのために高価な機材や設備も導入された。研究員は各自が選択するテーマにくわえて、政府から依頼されたプロジェクトに参画させられた。さらにコルベールの工場制手工業の育成策と相まって、織物・染物・陶器・高山・冶金などの技術の監督や改善にも携わった。また、国内の技術の特許はすべてアカデミーで審査された。このように王立科学アカデミーは、国家機関として実質的に旧体制下のフランスの科学界・技術界を支配する立場にあった。この独占的・閉鎖的なエリート主義に対してフランス革命以前から批判はあったが、中央政府に直接コントロールされたその科学体制はフランス革命後の19世紀まで尾を引き、フランス科学に独自の学風を植え付けることになる。
 
 ロンドンの王立協会とパリの科学アカデミーは、学会の二つの異なるモデルとなった。個人主義的・アマチュア的性格を持った王立協会は18世紀にイギリスやアメリカに誕生した私設の学会の原型となり、国王ないし国家主導型の科学アカデミーはヨーロッパ諸国に18世紀に相次いで設立された王立科学アカデミーのモデルとった。
 
 このように、17世紀以後の近代科学の活動の拠点となった学会を背後で支えたのは、世俗の新興富豪や君主、貴族であり、カトリック教会ではなかった。学会成立の背後には、それまでヨーロッパの政治や経済、文化を支配下に置いていた教会に対抗して、都市や国家における新しい主導権の担い手が台頭していたという事実があった。

古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第2章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

 【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第二章キリスト教文化における近代科学(南窓社、2001年4月)p33−p48

 

 ヨーロッパが様々な国や民族から成り立っていながら文化的統一性を維持していたのは、キリスト教という共通の宗教を基礎としていたためである。このキリスト教文化が持つ自然観は初期近代の科学と相互に関連していた。
 
 イギリスの思想家フランシス・ベイコンの科学観は、同時代にとどまらず後世の人々に対しても様々な意味で絶大な影響を与えた。ベイコンの著書である『ノヴム・オルガヌム』は、新しい科学の方法と役割を体系化した彼の業績を象徴している。そこには、「技術としての科学」「技術のための科学」というスローガンが込められていた。そのスローガンには、科学とはそれまでのスコラ学のように学問に終始するものではなく、自然を支配し変革して人間生活の改善を目指すための営みであるという意味がこめられている。それゆえベイコンにとって、アリストテレスの哲学よりも職人たちの技術の方が、人間が自然を利用し搾取すること、すなわち自然を支配することに貢献してきたのだ。
 
 人間による自然のコントロールという姿勢をもつベイコンは、科学のあるべき方法として、一般原理から個々の現象を説明する演繹法に代わって、実験や観察による膨大なデータから公理を導き出す帰納法を強調した。また、このベイコンの思想に依拠したベイコン主義は、実験や観察のみを科学の出発点とすることから今日批判されているが、ベイコン本人は漠然と無闇に実験をするのではなく、組織化して方向付ける必要性を強調していた。このようなベイコンの実験的手法は、ボイルの新実験哲学からもみられるように、17世紀以降の多くの自然探求者の科学活動の指針となった。そしてそれが洗練され精緻化し諸領域に適用され実を結んだのは、18世紀以降のことであった。
 
 ベイコンの思想に見られる自然に対する姿勢には特徴がある。それは、主体と客体の分離、自然支配、自然改造の概念である。しかしこれらは、ベイコン独自のものではなく、むしろこの時代の自然探求者の特徴を定式化したものであるとも言える。また、ベイコンが新しい科学の目的と方法を記述するのに用いた表現スタイルやレトリックは、本来彼の専門であった法律のそれと重なっていた。
 
 イタリアの歴史家ロッシの研究は、歴史家がそれまで無視してきたルネサンスの魔術とベイコンとの深い関わりを明らかにしている。ルネサンスの魔術思想は、新プラトン主義やヘルメス主義やカバラ主義と混合して発展した思想で、自然を神から与えらえた隠れた力をもつ存在とみなした。ロッシによればベイコンは、ルネサンス魔術思想からつよい感化を受け、そこから自然の力を知ることにより世界を支配する術を獲得しようとする観念を汲み取り、それをキリスト教のもつ神・人間・自然の関係の思想の基盤に乗せたという。ベイコンは後に魔術の批判者に転じたが、その要素をキリスト教的世界観に組み入れて新しい科学観・自然観に転換したといえる。
 
 またベイコンが主客の分離が可能だと考えたのは、キリスト教の教義に基づいたためであった。そのため、人間は特別な存在であり、人間の下に自然があって、人間は自然を知ることによって支配できると考え、よって科学活動は信仰活動であると捉えていた。当時多くの自然哲学者は、このようなキリスト教的自然観を共有していた。その中でのベイコンの立場は、自然探求によって神の偉大な力を知ることはできるが、被造物の考察自体からは神の本質や属性を知ることはできないというものであった。またベイコンは、自然解釈が過度に働くことによって、信仰の心理が侵食されるおそれがあることを危惧した。いかなる自然の知識も、聖書の前では無力であると考えたためである。後のベイコン主義者と違うのは、ベイコン本人は信仰と科学を分離していたということである。結果的にキリスト教的自然観を反映したベイコンの科学の方法と理念は、逆説的に科学が神離れしやすい要素を内包することとなった。
 
 科学社会学の祖であるアメリカのマートンは、著書『17世紀の英国における科学・技術・社会(1938年)』において、キリスト教的自然観の普及と科学の興隆を宗教革命、とりわけイギリスにおけるピューリタン革命(1642年から49年)とを結びつけて論じた。ピューリタンは、その信仰や生活態度が功利主義・経験主義・理性主義といったエートス(価値観、倫理観、信念の総称)をもっていた。ピューリタンは、絶え間ない努力によって現実の社会や自然を作り変え、悪や欲望を征服しようと目論んでいた。つまり、ピューリタンにとって自然を研究することは、神の知恵と力と善を理解するための有効な手段であったのだ。そのために、実験や観察などの理性を用いる作業が重視された。これは、ベイコンの科学観すなわちこの時代の新しい科学観と一致した。よって、ピューリタンの台頭により科学活動が活発化することとなり、17世紀科学興隆の大きな要因となった。これらの事実を示すためにマートンは、17世紀当時の自然探求者の中のピューリタンの割合を統計データで示した。この手法は、科学史や知識社会学の研究において多くの人物の履歴・伝記を調査し、その中になんらかの共通項を探し出す手法すなわちプロソグラフィーの先駆となった。
 
  その後、以上の「マートン・テーゼ」をめぐって学者間で賛否両論が巻き起こった。ピューリタンエートスは当時の科学のエートスから影響を受け、またはその逆もあったという、どちらの面も持つ切り離せないものであったためである。すなわち、この時期の信仰と科学活動の動機は深く関わりあっていたのだ。マートン・テーゼが確かに明らかにしたことは、プロテスタンティズムの改革運動の流れの中で、ベイコン的科学観が社会に受容されるようになった事実である。ひとつ留意しなければならないのは、マートンが論じたのは17世紀イギリスに限定した話だったということである。観察・経験を重んじた科学は他のヨーロッパの国々にもみられ、また、プロテスタント系科学者とカトリック系科学者の間に思想的な相互影響があったことも見受けられる。そのため、マートンのいう「イギリス的エートス」はピューリタンプロテスタントだけの物ではなく、むしろ「クリスチャン・エートス」としてキリスト教全般のエートスが科学活動を促していたとして捉えるべきものであった。
 
 キリスト教の教義に根差した科学活動が展開される17世紀当時の自然探求者の神と自然に対する基本的な考えを、イギリスのティムが1612年に書いたある一節が端的に物語っている。そこではすなわち、「創造主は二つの重要な書物を我々に差し出した。自然という書物と、聖書である。」ということが語られている。このようなキリスト教信仰の上での動機から、神の示す第二の書物すなわち自然の探求に駆られて科学活動が行われた。多くの自然探求者による科学活動の思索の根底には、神の概念があったのである。これは我々現代人が持っている科学観とは異なる。例えば、ケプラーガリレオにとって、神は偉大なる数学者であった。よって、自然の背後には数学があり自然現象は数学によって解明できると考えた。現代では疑念すら持たれなくなったこの視座は、もとはルネサンスで復活したプラトン思想に1つ着想のルーツをもっており、これは近代ヨーロッパの文脈においては信仰と調和して発展することとなった。
 
 17世紀の自然観を代表する機械論哲学は、科学革命期に台頭した思潮で、ボイルによって命名された。機械論哲学は、神の世界創造、主体と客体の分離、人間の自然支配、これらの思想と整合する世界観であり、世界全体を神が創造した巨大な機械と捉えた。よって、既存の機械やそのモデルとの類比によって、機械と同様の原理をもって自然現象を解明しようとしたのである。この時代の自然探求者たちはこの機械論的アナロジーに基づく世界観を供給しており、また、数学的世界観とこの機械論的世界観の両方を併せ持っていたものも多い。機械論哲学の代表者であるボイルは、この世界を17世紀当時最も精巧の機械として知られていたストラスプールの大時計にたとえて、時計の製作者と世界の創造主である神をつなげてとらえ、称賛した。また近代合理主義の祖であるフランスのデカルトは、機械論的なアナロジーを聖域とされていた人体にも適用した。デカルトによれば、人間は神が創造した最も精巧な機械であった。
 
 機械論には、生物体を生命を持たない不活性な物体からなる機械の集合体とみなして、その物体の機械的・力学的運動からのみ体内の諸作用を説明しようとする姿勢があった。こうした視座は、全現象を究極的粒子の運動や衝突からのみ説明する古代原子論の影響を受けている。無神論的彩色の強いこのギリシア原子論も、この時代にはガッサンディらによってキリスト教化されていた。機械論においてアトムという語の使用は避けられ、あえて「粒子哲学」という異名がつけられた。ボイルによって広められたこの西欧版原子論は、機械論哲学と一体化していた。機械論哲学はまた、自然魔術に対する対抗文化として登場した側面もある。当時の知識人にとって機械論哲学の魅力のひとつは、その論理的明快性にあった。身近な生活の中にある機械と関連付けることで、思い描きやすかったのである。その意味で、それまで中世の自然学を支配してきたアリストテレス的な抽象概念の世界とは極めて対照的であった。また機械論哲学は、神を世界の製作者として讃えることができたことも、キリスト教を信仰していた当時の知識人にとって魅力的であったといえる。キリスト教の霊魂不滅の教義に従ったデカルトの機械論的アナロジーはそれゆえに感覚どまりであり、精神作用にまでは及ばなかった。この意味でデカルトの人間機械論は、正確に言えば「身体機械論」であり、そこでは主体たる精神と客体たる機械的自然の分離が維持されている。こうして機械論は西欧近代科学の基本的な認識論の一つとして強化されいった。そしてその流れは20世紀の人工知能研究へもつながっていくこととなる。
 
 以上のように、主客の分離、人間の自然支配、実験、法則性の発見、数学的自然学、機械的世界像等の、今日の科学が諸要素はヨーロッパ固有のキリスト教的自然観と深い関わりを持っていた。そしてこのような自然観は西欧特有のものであった。それは、錬金術の思想からみる西洋と東洋の自然観の違いにおいても明らかである。錬金術の目的は、西方と東洋では大きいく違った。初期ヨーロッパ系錬金術の目的は、卑金属を貴金属の金に変えて富財をなすことであった。対して中国の錬金術では、不老長寿をもたらす金、すなわち丹とよばれた薬の探求がなされていた。また東洋においては、人間が自然と融合することに大きな価値が置かれ、人間と自然を故意に離反・対立させる西欧的枠組みは希薄であった。このように、今日普及している科学は、西欧固有の文化的土壌で育まれた特異な科学であったことを留意すべきである。

古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第1章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第一章二つのルネサンスから近代科学へ(南窓社、2001年4月)p19−p32

 

 16世紀から17世紀のヨーロッパにおいて、近代科学の基盤がつくられた。宇宙観や人間の自然における位置の概念が一新されたため、この時期を「科学革命」と呼ぶことがある。このような呼称は、18世紀のフランスの啓蒙主義者たちによって最初に表現され、後にイギリスの歴史学者バターフィールドの著書『近代科学の起源』によって歴史用語として定着したとされている。科学革命が起こったとされる年代に統一した見解はないが、コペルニクスの『天球の回転について』やヴェザリウスの『人体の構造について』が出版された1543年を起点とし、ニュートンの『プリンキピア』が出版された1687年を完結点とする場合が多い。
 
 近代科学は、多くの面でギリシア科学を土台としている。しかし、この古代ギリシア時代からヨーロッパ近代の間には千年以上の期間があり、そのためヨーロッパにおいてギリシア科学は中世後期まで忘れ去られていた。その後、ヨーロッパがそのギリシア科学を再発見し復活させた時期が2回あった。一つが「12世紀ルネサンス」と呼ばれる時期であり、もう一つが14世紀から15世紀に起こった「ルネサンス」である。
 
 12世紀ルネサンスではヨーロッパにアラビア科学が受容され、アラビア語の数々の書物がヨーロッパの共通学問言語であったラテン語へと翻訳されていった。これによって、医聖ヒポクラテスや万学の祖アリストテレス、数学者エウクレイデス(ユークリッド)、天文学者プトレマイオス、医学者ガレノスら古代ギリシア人たちの著作がヨーロッパに続々と紹介された。とりわけアリストテレスがヨーロッパの知識人たちに与えた影響は大きい。アリストテレスの著作としては、彼がつくった学校であるリュケイオンの当時の学頭アンドロニコスが、紀元前1世紀にアリストテレスの議事録を元に主題別に編纂した『アリストテレス著作集』があげられる。その主題には、『分析論前書』、『分析論後書』、『自然学』、『霊魂論』、『生成消滅論』、『天体論』、『気象学』、『形而上学』がある。これらの著作は、イスラム学者たちの注釈と一緒に、ヨーロッパの学者たちによってラテン語に訳された。
 
 13世紀になると、ドミニコ会士の聖トマス・アクィナスらによってアリストテレス哲学とキリスト教教義が融合され体系化し、「スコラ哲学」がうまれた。これは大学の主要な学問として扱われたが、信仰すなわちキリスト教教義と理性すなわちアリストテレス哲学のどちらを優先すべきかについて論争を巻き起こしていた。とりわけイスラムの哲学者アヴェロエスの解釈とキリスト教教義との間に矛盾が生じていた。そのためパリ大学内部では、このアヴェロエスの注釈を支持する学芸学部を中心とした「ラテン・アヴェロエス主義」と、それまで絶対視されてきた聖書の教えを尊重する神学部との間で論争がおこった。神学部が問題視していたアヴェロエス主義の内容のひとつに「二重心理説」がある。これは、哲学上の真理と信仰上の真理が矛盾した場合、両者共に認めるという立場であった。ほかには、アリストテレスの「世界の永続性」の概念がある。これは世界には初めも終わりもないとする考えであり、このことは神の天地創造を否定するものとして強く反発された。パリ大学の神学部教授であったトマス・アクィナスは、反アヴェロエス主義の側に立った。このパリ大学内の学芸学部と神学部の対立は発展し、1277年にはパリ司祭のタンピエによって断罪された。それはすなわち、アヴェロエス派が主張する219箇条の命題について、そのいずれか一つでも弁護する者は破門に処すという布告であった。このパリでの断罪の件は、アリストテレス解釈の多様化を促し、14世紀の知的風土を生み出すこととなった。
 
 第二のルネサンスである「イタリア・ルネサンス」は、14世紀イタリアのトスカナ地方の都市共和国フィレンツェが中心であり、大富豪のメディチ家がその熱心なパトロンとなっていた。12世紀ルネサンスイスラム世界から入った古典学芸をアラビア語を介して復興した運動であったのに対し、イタリア・ルネサンスはギリシアやローマの原典を広範から収集し原語からラテン語訳をして厳密に研究したことに特徴がある。とりわけ、1453年のオスマン・トルコによるコンスタンティノープル陥落時にギリシア語の古写本がフィレンツェに大量に持ち込まれた。また、ヨーロッパ各地の修道院に伝わる古写本が大規模で調査されたことも、古典学芸の広範な収集活動の一つであった。これを契機に、プラトン哲学やヘルメス思想、原子論やギリシア数学など、12世紀ルネサンスでは蘇らなかったギリシア思想が復活することとなった。またこれらは、科学革命の特徴の一つであるスコラ的アリストテレス主義の棄却を促す対抗的思想となった。
 
 コンスタンティノープルからの亡命学者プレトンは、メディチ家の統領コジモ・メディチの保護のもと、1443年にフィレンツェにてアカデミア・プラトニカという学者の研究機関を創設し、プラトン哲学やヘルメス思想の復活に努めた。ここで、わずかしか知られていなかったプラトンの著作が原文で研究されることとなる。アカデミアの学頭でコジモの侍医であったフィチーノは、1484年にプラトンラテン語版全集を出版した。またフィチーノは、1460年にマケドニアで発見された『ヘルメス文書』のラテン語訳『ヘルメス大全』を1484年に刊行した。ヘルメス文書とは、紀元前3世紀から紀元前3世紀にかけてエジプトで書かれたヘルメス・トリスメギストスと呼ばれる神の教えと伝えられる文書群である。その思想は、魔術や宇宙論占星術錬金術を取り込んだ深遠なものであり、ルネサンス人を魅了した。また、コペルニクスパラケルスス、ディー、ブルーノ、ケプラー、ファン・ヘルモントらに大きな影響を与えた。
 
 レウキッポスとデモクリトスによる古代初期の原子論の存在はアリストテレスの著作を通じてすでに知られていたが、その学説を正統に継承したギリシア後期のエピクロスやローマの詩人ルクレティウスの原子論思想はこのイタリア・ルネサンスの時期に蘇った。ルクレティウスの思想は1417年に彼の叙事詩『事物の本性について』の写本をポッジョ・ブラッチョリーニによって修道院から発見されることによって、エピクロスの思想は後期ギリシアの哲学者ディオゲネス・ラエティオスの『著名哲学者の生涯と教説』に引用されていたことから、ルネサンス人の目に止まることとなった。このラティオスの著作は、1431年にトラヴェルサリによってラテン語に訳された。17世紀になると、このラテン語訳をもとにフランスのガッサンディエピクロス的原子論をヨーロッパ広範に普及することとなる。
 
 イタリア・ルネサンス以後、科学が途切れることなく確実に伝承され、また学問が比較的広い層に行き渡ることになる背景には、印刷技術の発展と普及があげられる。12世紀ルネサンスでは口述文化・写本文化であったが、15世紀中葉にドイツのマインツグーテンベルク活版印刷を発明し、15世紀中頃までには製紙術が羊皮紙より安価な麻布を原料として確立されたことによって、広範囲にそして急速に知識が伝播することとなった。一方洋の東、中国では、その700年前である8世紀初頭の唐の時代には、すでに木版印刷が発明されていた。
 
 西欧の自然探求者たちは、このイタリア・ルネサンスで蘇った古代思想を拠り所として、彼らの時代の価値観と調和させながら新しい世界観を築き上げた。16世紀以降出現した「数学的自然観」「新実験哲学」「粒子哲学」「機械論哲学」など、西欧近代科学を特徴づけるこれらの自然認識は、イタリア・ルネサンス時代のギリシア著作の復活に源流を持つ。数学的自然観はプラトン思想と、新実験哲学は部分的にヘルメス主義と、粒子哲学や機械論哲学は古代原子論と、深くか河内あっている。これらの思想は相矛盾する面もはらんでいたが、アリストテレス主義の対抗思想となった点で共通している。またこの時代には、アリストテレス思想自体についても中世とは違った解釈が生まれるようになった。その理由としては、ギリシア語の原典や古代人の注釈書から直接研究し直されたことがあげられる。
 
 ルネサンス運動のベースとなった人文主義は、古典の収集や模倣、文献学的研究によって古代文化を再生し、それを手本として封建社会から人間性を解放・復興させ、個人としての自我の自覚をはかろうとする思潮であった。これを標榜する人文主義者たちは、スコラ学や既成の大学、教会の権威を批判する勢力となり、当時の社会を批判した。しかし現実には、イタリア・ルネサンスのもつ貴族的性格から、直接社会を変革するには至らなかった。
 
 古代とルネサンスとの間にある「中世」という時代区分は、人文主義者たちのルネサンス的価値観に基づく歴史意識から芽生えたものである。普通4世紀初めのコンスタンティヌス帝の時代から15世紀中葉のコンスタンティノープル陥落までをさすこの「中世」は、18世紀の啓蒙主義の興隆によって暗黒時代という印象をさらに強調されるようになる。とはいえ、古代人の英知から真理を学びとることができるという信念に裏付けされたこの熱狂的な復興運動は、結果的に西欧世界に大きな知的転換を招く一つの背景になったのであった。

古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』序章

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

 

【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』(南窓社、2001年4月)p9ーp18】  

 19世紀中頃、欧米列強の植民地化の脅威にさらされていた日本は鎖国を解いて開国した。開国後、殖産興業・富国強兵のスローガンのもと、国策として西欧の科学と技術を制度ごと導入した。こうした近代化は、日本を大きく変貌させることとなる。
 
 日本が開国をするきっかけとなったペリー来航のあった19世紀半ばのヨーロッパは、産業革命が進行し、技術の飛躍的な発展を遂げていた。その当時のヨーロッパにおける近代的技術の産出は、科学によるものではなく、職人や技術者たちの経験や創意工夫、試行錯誤、実験の賜物であった。科学を基礎として成り立つ技術である「科学的技術」が登場するのは、それよりしばらく後である。しかしながら、近代技術の発展の原動力はひとえに科学の進歩によるものであるというパブリック・イメージは、この19世紀半ばの欧米においてすでにできあがっていた。
 
 同様に、文明開化の日本が見た西洋科学とは、純粋な自然の探求というよりも、実用的技術の開発に近かった。日本において「science」の訳語が「科学」であると普及し定着するより前は「理学」という言葉があった。この理学は明治期において、自然の探求だけでなく技術あるいは工学をも包含した学問であると理解されていたこともまた、実用的技術の開発のための西洋科学という理解がなされた一因であるといえる。明治の約半世紀にわたる西洋科学の受容の過程で生まれた日本人の科学観は、技術と強く結びつき、技術を媒体として社会を変える大きな力となりうる科学という「結果としての西洋科学」の性格を色濃く反映している。
 
 そもそも、西欧文明が入ってくる前の日本において「科学」という言葉は存在していなかった。scienceの訳語として科学という言葉をつかった最初期の人物に、哲学者の西周がいる。彼は、流入当時の西洋科学が様々な分野に専門的に分化していた様から、様々な「科」からなる「学」問という意味をもつ「科学」をその訳語にあてた。なお、今日中国や南北朝鮮でもscienceに対して同じ漢字を使うが、これは日本からの輸出語である。また、もし哲学・思想・宗教を包含した、境界を持たない未分化で幅広い知的営みであった17世紀頃の西洋科学が流入していたなら、違う訳語があてられていただろうと推測される。
 
 自然に関する知識の体系とそれをつくり出す営みを広く科学と呼んだとき、それは古代から近代に至るまで、ギリシア・インド・アラビア・中国・日本など、洋の東西にかかわらず存在していた。今日われわれが科学といえば、ヨーロッパで生まれた近代科学をさす。これは16世紀から17世紀の西欧近代の幕開けに成立した科学の総称であり、現代においてはあえて「ヨーロッパ」科学と断り書きをつけるまでもないほど国際化している。
 
 近代科学は、その誕生から今日に至るまでの約4世紀の間に大きな成長をとげた。16世紀末から17世紀初めには、科学という営みはまだ社会で「市民権」すらもっておらず、大学では科学の専門教育は全く行われていなかった。また、科学は職人技術とはほとんど融合していなかった。科学は哲学や宗教と区別できない営みであったし、そもそも宇宙の理解や自然の探求は総じて神の計画を理解するという信仰上の動機から行われていた。
 
 現代の科学は、社会的に大きな意味をもつ営為になっている。科学はそれ自体、社会的に定着した仕組みとして制度化し、また職業としても確立されている。大学は職業科学者を量産し、科学研究を行う場や環境も整えられ、政府は国策の柱として科学政策を打ち立てている。哲学や宗教や文化的価値から遊離した知的活動である現代の科学は、その内部において様々な分野に分化し高度に専門化している。そんな現代科学の使命は、神の計画を知ることや教養、文化活動といったものよりも、ひとえに社会や国家の実益に資することにあるとみなされる傾向が強い。科学と産業技術や軍事技術との結びつきは深く、それらの分野での諸成果を通して社会に大きなインパクトを与え、現代文明の中枢で機能している。
 
 今日の科学の社会的相貌は、ヨーロッパの4世紀の歴史における科学と人間と社会とのダイナミックな相互作用の中から形作られてきたものであるともいえる。現代において科学は世俗化され、いわばマニュアル化されて国際的にも伝達可能な様相を帯びている。19世紀以降、急激にヨーロッパの科学文明が世界を席巻するようになったのも、社会的基盤と意義をそなえた営為に発展していたことによるところが大きい。日本が19世紀後半に西洋近代科学を導入した際、それを支える諸制度の移植の方が、科学の理論や思想といった中身の理解・摂取よりもむしろ先行していたのも象徴的である。
 
 本書は、こうしたヨーロッパ近代科学の社会化の歴史、特に中世後期から20世紀前半までの動きに焦点を当てられている。近代科学はいかにして世俗化・大衆化・制度化・職業化・専門文化・技術化・産業化・ナショナル化・軍事化・巨大化の道をたどったか。またどのような影響を社会に及ぼし、現代科学文明がもつ社会的基盤がどのように形成されたのかを見ていく。
 
 今日あるような科学の社会的相貌は、決して予定調和的にできあがったものではない。そこに至るまでの道筋には、国や時代によって違う文脈が存在した。共通して言えることは、科学の実践者自身による、科学の営みを社会的に認知させるための様々な主張や訴えが果たしてきた役割は、科学の社会化・制度化において大きいということである。そこに存在するさまざまな科学の理念やイデオロギーは、その時代の社会や文化の状況が刻印されたものと見なされ、現実につくられる教育や研究の制度の性格を規定してきた。制度というものは、いったん確立されると、個々の成員の意志から独立して集団の態度や行動を規定し固定化する特徴を持つ。それゆえ、制度が以後の科学の性格や方向に与える影響は大きい。さまざまなプロセスを経ながらも、ヨーロッパ科学の目的と性格は大局的には共通の方向に向かっていた。その背景には経済競争や戦争があり、それらが科学の社会的相貌の画一化を促したことは疑いの余地がない。科学の制度化の変遷の様相を理解することにより、われわれの生きる現代の特異性と歴史とのつながりが浮かび上がってくる。
 
 20世紀の科学技術には、われわれの社会生活を豊かにする光の面と、われわれ人類を脅威にさらす影の面の両方をもっている。近年、特にこうした影の側面が深刻化するにつれて、現代科学技術は危殆に瀕しているという感が強まっている。こうした問題点の所在を探り、これからの科学技術のあり方を考える上でも、歴史は何がしかの手掛かりを与えてくれる。

E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第3章 中国の錬金術

 

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

 

 

【第3章 中国の錬金術
 中国の錬金術は、西洋の錬金術と並行して営われていた。その発展の経路については、ジョンソン (Obed Simon Johnson)、デーヴィス (Tenney Lombard Davis)、ウー (Lu-Chiang Wu)、チェン(Chen Kou Fu 陳国符) の研究があり、とりわけダブス (Homer H. Dubs) の研究によって明らかになった。
 
 錬金術についての最も古い言及の一つに、紀元前144年に出された中国の皇帝の勅令がある。錬金術を法律で禁止しなければならなかった事実は、錬金術がそれ以前も営われていたことを示している。中国の資料によると、錬金術が最初に行われたのは、紀元前4世紀に活躍した名士の騶衍 (スウエン Tsou Yen) によるとされる。その後勅令によって錬金術が禁止されてからも、錬金術が止まることはなかった。勅令が出てからわずか11年後の紀元前133年に、ある錬金術師が武帝に迎えられることとなる。その錬金術師は、不老長寿の秘密を発見したと称していた。彼の言うところは、中国の錬金術における二つの特徴を示している。ひとつは、錬金術の主な目的が、不死あるいは長寿を確保するためであったことである。この時代の中国において商業は軽蔑されていたため、錬金術は寿命を延ばすという高貴な目的のために行われていた。もうひとつは、それを達成するためには、精霊あるいは二次的な神の助けが必要なことである。
 
 このような目的のもと、紀元前60年には劉向という若い学者が、漢の宣帝のために様々な実験を試みた。そのために、帝室の後援のもと莫大な金額がつぎこまれたが、結果は失敗に終わった。劉向は、紀元前144年の勅令に違反したとされて役人たちによって断罪され、死刑を宣告されたが、彼の能力を惜しんだ皇帝が働きかけたことで、刑は無効となった。このような大失敗が起きたにもかかわらず、錬金術の探求や錬金術への期待は、衰えることがなかった。その営みについて、様々な話が残っている。ダブスによって伝えられたものによると、錬金術を好んだ官人の程偉が錬金術における金づくりを試みる際、方士の家族から向かい入れた元召使の妻からの手助けをもって成功を収めたという話がある。妻はその秘訣を知っていたにもかかわらず最初から夫の金づくりを手伝わなかった理由として、夫に錬金術の実践をもって得られる金を手にいれる「天命」があるか見極めていたのだという。このことは、後世の錬金術師が想定した、ふさわしい占星術条件の存在を想起させる。また、妻が夫を手伝う際、ある薬品を添加したとされている。このことは、後に金の成功に不可欠となる賢者の石のはしりといえるだろう。また、『参同契(サンドウケイ)』の著者とされる、魏柏陽を名乗る人物に関する逸話も残っている。不老長寿を叶える錬金薬(エリクシール)を完成させた魏柏陽を名乗る人物は、自身で仮死状態を演じて弟子の忠誠を試し、師を信じてともに死んだ弟子のみを迎え入れて、不老不死となったという。初期の中国における錬金術についての知識は、4世紀頃に中国の南部で活躍した葛洪の著作からも得ることができる。その書物では、金の成功のためには化学的な操作以外のことも必要であるとされている。すなわち、長寿を得るためには禁欲的な規則を遵守する必要があり、術を行うにあたって必要な準備や人数、環境が決まっているとした。また、術の内容は書物からだけでは得られず、必ずその道に精通した人から直接教えを受けなければならないとした。さらに、しかるべき神礼拝する信仰も持ち合わせていなければならない。くわえて葛洪は、金属変成と錬金薬の調整について多くの処方を伝えている。彼は、錬金術によってつくられた完全に均一な金と、金に見せかけるために色づけされた卑金属は区別されなければならないと指摘している。また、寿命を延ばす薬には植物を材料にしたものもあるが、不死のためには金属と鉱物を材料にしてつくった霊薬(エリクシール)以外にはないとしている。
 
 中国の錬金術の理論的な背景には、道教の考え方がある。「道(タオ)」とは、宇宙が運行すべき道を意味する。道教は、事物の第一原因を、地球の周りの天の回転に求める信仰に基づいている。道教を遂行する「道士」は長寿を望み、その欲求は不死の希望へと向かった。その結果、道士たちは、錬金術の研究と実践を行うようになった。彼らの論には三つの主要な点がある。一つ目の点は、中国人が5という数字をきわめて重視していたことである。二つ目の点は、5という数字と1から9までの数字による魔方陣との関連性である。そして三つ目の点は、「陰・陽」の理論である。一つ目の点、5の数字が重視されたことには、あらゆるものを五つにくくって捉えていた事実との関連がある。すなわち、あらゆる事物の素は木・火・土・金属・水の五元素あるいは五行、空間は北・南・東・西・中央の五方位、色は黄・青・赤・白・黒の五色、金属を金・銀・鉛・銅・鉄の五つにくくっていたということである。また、五元素、五方位、五色、五つの金属はそれぞれ関連させて考えられていた。また、これらの組み合わせは、惑星ともつなげて考えられていた*1
 
 この考え方は、中国の錬金術に見られる多くの理論や思想を理解する上でおさえるべき根本的考え方であり、後の時代に錬金術において対応関係が用いられることになる先駆けであった。二つ目の点、51から9の数字による魔方陣との関連性については、ステイプルト (Henry Ernest Stapletom) が研究している。彼は、その魔方陣が「明堂」すなわち「聖堂」の基本的な設計をなしていると指摘している。明堂は、正方形のお堂で、9つの部屋に魔方陣の数字の配列に沿って番号がわりふられている。そのお堂は、主に法令の布告のために用いられ、特に年によって変動する中国の暦を調整のための宣言に使われていた。この明堂は魔方陣の起源といえ、その設計は錬金術にとっても重要なものであった。国を司る天子は、明堂にいるときにおいては神の化身であると信じられおり、質を支配する力をもつとされていた。この明堂の基本的な設計をなした魔方陣を護符として用いることで、不老不死や金属変成を達成させるための錬金薬(エリクシル)の製造のために、この天子の力をいくらか分け与えられようとしたのである。こうした製造の過程にもやはり5という数字が関連し、材料の加熱を5回ないし5の倍数行わなければならないとされた。三つ目の点「陰・陽」の理論は、明堂が現れてから数世紀後の紀元前6世紀頃に登場した概念である。これは、宇宙の始原物資から生まれた正反対の原理、すなわち「陰」と「陽」の対立原理の概念である。「陰」は、女性的、水性の、重い、受動的、土的で、太陽と結びつくものであり、「陽」は、男性的、火的な、軽い、能動的で、月と結びつくものとされた。この二つの原理による相互作用によって、この世界を構成する五つの元素が形成されるとした。この考え方を錬金術へ拡張させ、「陽」を金などの生命や長寿をもたらす力をもつ物質と結びつけて考えられた。しかし、「陰」については受動的とされることから、特に錬金術と結びつけて考えられることはなかったとされている。
 
 中国の錬金術と、イスラムやヨーロッパの錬金術との関係については、盛んに議論が行われている。中国の錬金術の知識が、ペルシア、メソポタミア、アラビア、エジプトの錬金術師たちに影響を与えたと考えられる一方で、その逆の流れをもって影響が与えられたとも考えられている。錬金術の知識が中国から西洋へ流れた説を考えるとき、初期のアレクサンドリア錬金術師たちの周りには冶金術や試金術についてよく知る人々が多くいたため、自分の作ったものを金と主張できずに金の模造品をつくる試みにとどまったという事実が、根拠とされる。それに対して、中国では金は極めてめずらしいものであったため、錬金術師のつくった金が本物として通用する可能性は、アレクサンドリアよりもずっと高かった。よって、金属変成の理論が、中国において盛んに研究されたのではと推測される。また、中国とアレクサンドリアとの間では、盛んに貿易が行われていた。これらのことから、金属変成の考え方は、中国人によって西洋に持ち込まれたと考えられるのである。また、逆の流れを考える上でも、説得に足る論証がある。ひとつは、中国人が金属変成の理論をアレクサンドリアに持ち込んだ場合、同時に不老不死についても言及されることは必至であろうという点である。また、アレクサンドリアにおいて冶金の知識水準が高くとも、その事実は金属変成の可能性を受け入れられなかった理由としては、不十分だと言える点である。これらのことから、錬金術の知識が、中国から西洋に流れたとも、その逆の流れがあったともいえず、実際には同時に並行して金属変成の可能性の発見とその探求がなされたと考えることもできる。その裏づけとして、中国では不老不死に、西洋では金の獲得にそれぞれ重点がおかれていたことがあげられる。中国とアレクサンドリアとの間、またそれらとイスラムとの間で知識と情報の交換があったことは確かである。しかし、それが必ずしも錬金術的な知識の交流を示しているとは、いえないのである。いずれにしても、この論を展開するにあたっては、より多くのデータが必要といえる。
 
 アレクサンドリアをはじめとする東地中海沿岸諸国で錬金術が急速に発展し始める頃、中国では錬金術が衰退し始めた。1000年までには錬金術の実際的な探求は放棄され、錬金術の語彙や用語は、精神的・神秘的な学問体系に採り入れられた。こうした展開は、すでに西洋でも始まっていたものであった。一方で、中国において不死への希求はいっそう高まり、錬金術的な思考はその骨組みとして形だけ残ることとなる。

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