古川安『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第1章
【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』第一章二つのルネサンスから近代科学へ(南窓社、2001年4月)p19−p32
古川安『科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで』序章
【古川安著『科学の社会史ールネサンスから20世紀まで』(南窓社、2001年4月)p9ーp18】
E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第3章 中国の錬金術
- 作者: E.J.ホームヤード,Eric John Holmyard
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中国の錬金術は、西洋の錬金術と並行して営われていた。その発展の経路については、ジョンソン (Obed Simon Johnson)、デーヴィス (Tenney Lombard Davis)、ウー (Lu-Chiang Wu)、チェン(Chen Kou Fu 陳国符) の研究があり、とりわけダブス (Homer H. Dubs) の研究によって明らかになった。
- 関連文献
*1:
E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第2章 ギリシアの錬金術師
- 作者: E.J.ホームヤード,Eric John Holmyard
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錬金術の発展は、主にヘレニズム時代のエジプト、特にアレクサンドリアとナイル川のデルタ地帯等の諸都市で始まった。アレクサンドリアとは、紀元前322年に設立された古代世界において最大の重要な都市をさす。そこには、学者たちがギリシア世界のいたるところから海を渡って引き寄せられ、大学の一種であるムセイオンが彼らを収容するためにつくられた。そこでは、文法、文芸評論、文献学、天文学、占星術、医学すべての分野に学識豊かな師と熱心な弟子がおり、活発に学問が営われた。すなわち、エウクレイデス(ユークリッド)によって数学の学派が開かれ、その弟子のアルキメデスは今日誰もが知る「アルキメデスの原理」を導き出した。他にも、1000以上の星の目録をつくったヒッパルコス、地球の周囲を測定したエラトステネス、円錐の切断について論文をかいたペルゲのアポロニオスがいた。こうした知的な活動は、アレクサンドリアの港での活発な貿易による外国との接触から刺激を受けていた。
ナイル川のデルタ地帯における諸都市でも、学問は栄えた。その諸都市の一つであるメンデスにおいて、ボーロス・デモクリトスは著書『フィジカ』を書いた。ボーロスは、職人のメモや実際の知見をもとに、金づくり、銀づくり、宝石づくり、紫色づくりについて、この書物に記した。このボーロス・デモクリトスは、今日ギリシアの哲学者で原子論を唱えたとして知られるデモクリトスとは別の人物である。ボーロスをはじめとする初期の錬金術師たちの目標は、卑金属を金に似せる方法を見つけることであった。彼らにとって色こそ最も大切な金属の性質であったため、ギリシアの錬金術文献では主に色の変化やその順序についてが扱われた。このことは、後の錬金術に影響を残した。その思想的な背景には、あらゆる物質に含まれる「第一質料」(プリマ・マテリア)を得ることで、完全な金をつくることができるという考えがあった。よって、彼らの根本的な目標とは、この第一質料を得ることであった。そのための試みは様々になされたが、特に卑金属の融解または卑金属とその他の物質を加えて融解することによって得られる黒色の固体が、第一質料の候補として有力であった。そしてその固体はその後、色の変化を経て完成するとされた。その過程は錬金術師によって説かれる順序が異なるが、基本的に、黒、白、玉虫色、黄色、紫を経て赤にたどり着くとされた。
ボーロス以後、こうした初期の錬金術の営みやその理論化は絶えず続けられたが、その記録はほとんど残っていない。記録としては、エジプトのテーベの墓から見つかり、紀元後300年頃ものもと思われる「ライデン・パピルス」および「ストックホルム・パピルス」があるが、錬金術が紀元前後の数世紀に行われていた確証としては不十分であるとされる。いっそう確かな証拠としては、紀元後300年頃にエジプトのパノポリス(アフミム)のゾシモスが書いたとされる錬金術についての百科事典があげられる。ゾシモス自身のテクストも含まれているが、その大部分はゾシモス以前のテクストをまとめたものとなっている。ゾシモスの著作から分かることは、ボーロス・デモクリトスが『フィジカ』を書いた後の時代には、錬金術的な思弁が多種多彩に展開されたことである。その中では、エジプト魔術、ギリシア哲学、グノーシス主義、新プラトン主義、バビロニア占星術、キリスト教神学、異教の神話らが登場し、謎めいた暗示的な言葉をもって錬金術文献の解釈を困難かつ不明確にさせている。くわえて錬金術師たちは、漠然とした自説を権威づけるために、自分の名ではなく初期の哲学者や有名人の名を自身の論文に冠した。また、ある典拠の裏付けが必要になると、それらに錬金術的な解釈を与えて用いた。それらの行いにおいては、聖書の「雅歌」でさえ、隠された言葉で書かれた錬金術書であるとされた。残存しているゾシモスの書は、1887年から88年かけて、ペルトロ (Pierre Eugene Marcellin Berthelot) とルエル (E.C. Rouelle) によってフランス語訳とともに出版された。またゾシモスによると、彼が生きていた当時のエジプトでは化学的技芸は王室と神官の監督のもとに行われ、それについての書物を出版することは非合法であった。ただボーロスだけが、この規則を犯したとされている。その神官たちは、化学的な技芸の秘密を神殿やピラミッドの壁に象形文字で刻み、彼ら以外にはわからないようにしていた。しかしながらユダヤ人たちはその秘密を教えられ、後に他の人々に伝えたとされている。錬金術の百科事典を記したゾシモスは、金属や鉱物の化学的な操作についてかなり経験をつんでいた証拠を各所に記している。しかし、こうした今日に通じる化学的な知識は、錬金術を権威づけるものであるとも捉らえるものである。
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E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第1章 序論
- 作者: E.J.ホームヤード,Eric John Holmyard
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【第1章 序論】
長い伝統をもち、様々な人々の興味をひきつけてきた錬金術の本性には、二つの面がある。ひとつは表向きの面で、非金属を貴金属に変える力をもつとされる「賢者の石」をつくることである。もう一つは隠された面で、この石づくりや石の持つ力を、神の恩寵や信仰と結びつけて考えられるようになったことから、金属変成を罪深い人間が完全な人間になる過程のシンボルとして扱った。この二つの面は、分けがたく混ざり合っている。石づくりのことについて述べていても、実際の物質に対しては関心がない場合もあり、その意図は神学的、哲学的、神秘的な信条や熱望を述べることであった。本書では、主に表向きの面である実際的な石づくりについて扱われているが、隠された面である秘教的な錬金術も念頭におかなければ、石づくりの正しい理解はできない。
錬金術の二面性の他に考慮しなければならないのは、錬金術師の仕事の成功は彼らの生命に危険がおよぶことを意味する点である。成功したのではと疑われることさえも、十分に危険なことであった。また、たとえ王室の後ろ盾と許可を得て仕事をしていても、その危険性に変わりはなかった。したがって錬金術師は、身の安全のために、また、仕事によって得られた貴重な知識をほかにもらさらないために、自分の仕事について記述する際、寓意や比喩、ほのめかしや類比に満ちた言葉使いを用いた。そのため、必ずしも書かれているままを意味しているとは限らない。
錬金術師が、その探求によって多大な危険が及ぶと知りながらも追い求めた「賢者の石」について、17世紀に匿名の著者によって書かれた著書『(水性の)賢者の石』に詳しく見ることができる。すなわち賢者の石とは、大昔の、秘密の、理解を超えた、神聖な、祝福された、三位一体の万能な石である。また、その石の材料は鉱物である。それを粉末にし、さらに三つの元素に分解し、それら元素を再結合させることで、蝋のような溶融性のある固い石になる。しかし、このような概略で示されるほど、実際の石の製造は簡単ではない。まず、原料から不純なものを全て取り除かなければならない。その操作に用いられる「太陽の水」として知られる水性の液体は、肉体と霊魂と精霊のエキスを蒸留したものに、今日連想されるであろうものとは別の固有の塩を加えて凝縮させる必要がある。また、石づくりの最中は、温度と色の変化や正しい過程を踏んでいるかに細心の注意を払い続ける必要があり、何かあれば即座に対処することができなければ、成功することはない。著者は、このようにして調製された賢者の石によって、あらゆる現世的な幸福、肉体的な健康、物質的な富がもたらされることを読者に想起させることで、この『賢者の石』の書を閉じている。すなわち、賢者の石のおかげでノアは箱舟をつくり、モーゼは金製の器と幕屋をつくり、ソロモンは聖殿と多くの装飾品をつくり、くわえて自身に長寿と無限の富をもたらしたのである。
錬金術を意味する英語のアルケミー(alchemy)という語は、アラビア語で技芸を意味するアルキミア(alkimia)に由来する。「アル(al)」は定冠詞だが、キミア(kimia)の語源については諸説ある。一説によると、古代にエジプトを指す呼び名であったケム(kmtまたはchem)が由来であるとされている。錬金術は、初期の頃はエジプトで盛んに行われていたし、この説に沿うとアルケミー(alchemy)は「エジプト人の技芸」という意味になることからも一貫性があるといえる。しかし、古代の文献ではケムと錬金術の結びつきが全くないため、この説は否定される。キミア(kimia)の語源について有力な説は、ギリシア語で金属の溶融、鋳造を意味するキマ(chyma)に由来する説である。実際に錬金術は、多くの場合これらの操作に関わっていることからも、いっそう確からしい。それらの真実がどうであれ、ここまで言及してきたアルケミー(alchemy)や近代的な形であるケミストリー(chemistry)がアラビア語由来であることは確かであり、そのことは中世初期においてこの技芸の主要な担い手がイスラム教徒であったことを暗示している。
錬金術の語源はアラビアにあったが、その実際の営みの起源は人間の生活様式の変革からみてとれる。共同体をつくり、余剰収穫物ができたことで専門化した職人を雇うことができるようになり、おそくとも紀元前3000年までには様々な工芸が確立した。錬金術が明確な形で現れたのは紀元前数世紀だが*2、その土台となる技術的な知識は錬金術の登場以前から着実に重ねられており、その古代の職人たちの仕事は決して凌駕されることがないほど偉大であった。彼ら職人たちの仕事には、宗教的、魔術的な行為が伴っている。すなわち、金属、鉱物、植物、惑星、月と太陽、神々との間には関連があるとされ、特に天と地とを照応させる占星術的な体系は重要であると考えられた。錬金術師たちは、彼らから受け継いだ仕事とともに占星術の重要性もまた受け入れていた。占星術では、マクロコスモスすなわち宇宙と、ミクロコスモスすなわち人間との調和が強調され、宇宙での出来事は人間へ影響を与えるとされた。それは人間自体に関連されるだけでなく、薬や合金の調整を行うための好条件を見つけるためにも使われた。占星術において天宮図をつくる計算のために数秘術が現れ、ピュタゴラスが発展させた。*3錬金術書の中でしばしば数秘術が見られることからも、占星術と錬金術の関連がみてとれる。また、紀元前4世紀頃のギリシア人は、上記で述べてきた古代メソポタミアにおいてと同様に、占星術が宇宙でのすべてのできごとと関連があると考えていた。宇宙でおこるできごとの探求は、占星術以外でも進められて発展した。プラトンやアリストテレスは、それらの思想的探求を体系としてまとめ、後の西洋文明に根本的な影響を与えることとなる。
アリストテレスの物質の構造についての見解は、錬金術の表向きの面、すなわち賢者の石の理論的な背景の大部分をつくっている。すなわち、あらゆる物質は、火・気・ 木・土の「四元素」から構成されているとした。さらに各元素は、各々対応する湿・乾・熱・冷の四つの質を通して、他のどの元素にも変成が可能であるとされた。したがって、どんな物質もそれを正しく処理し、その元素比を他の物質の元素比に合わせるように変えることで、どんな物質にも変成が可能となるのである。ここに金属変成理論の始点があり、錬金術師たちが途方もない仕事を行うそもそもの哲学的な裏付けがある。また、錬金術師たちの根本的な考えである「一は全、全は一」という宇宙観もまた、アリストテレスの宇宙論に基づいている。くわえてアリストテレスは、金属や鉱物の生成について見解を述べており、それが錬金術師の思考を方向づける助けとなった。すなわち、アリストテレスは、互いに関係し合い、物質的とも精霊的ともつかない二つの「蒸発物」があると考えた。一方は霧状で金属に対応し、もう一方は煙状で鉱物に対応している。どちらの蒸発物もすべての物質と同じく四元素から成っているため、変成は可能であると考えられた。
- 関連文献
BHセミナー「『科学革命』を読む」第6回レジメ
The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)
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- 作者: 菅谷暁,山田俊弘
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Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p -p
【第六章 科学の世界を組み立てる】
後期中世から現代に至るまで、科学は研究や知識の蓄積にとどまらず、その応用に関心が向けられ、実行されてきました。そしてそのことは、人間の日々の世界を根底から変えることとなりました。科学革命期である16・17世紀は、特に強く関心が向けられた時期でした。
ルネサンス期のイタリアでは、古代の知が見直され、都市の改良や整備に活用されました。その背景には、実際の経験に頼る職人と、実際の事柄からは隔たってきた学者との間に生まれた、新興階級の存在がありました。その新興階級に属するのは、実際の問題を解決するために数学を用いた分析を行う人々です。その中に、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオがいました。彼らは、古代人を意識していました。
科学革命期当時の知識と古代の知識を結びつけて応用した例は、他にもあります。15世紀半ばから16世紀半ばにかけておこった採鉱ブームによって得た知識を整理して発展させた人物に、ドイツの人文学者で教育家のゲオルギウス・アグリコラがいます。彼は、著書『デ・レ・メタリカ(金属について)』の中でドイツの採鉱の慣行と古代の文献を結びつけただけでなく、冶金学のためのラテン語の語彙を作り出し、卑しい事業とされかねない採鉱業の品位を高めようと奮闘しました。地図制作の発展においては、15世紀に再発見されたプトレマイオスの『地理学』が、応用されました。また、実際的な問題に科学技術を応用する際、科学的知識の発見が活用されていました。航海において重要でありながら不十分であった経度の決定のために、天体観測によって得た知識を用いる試みがなされていたのです。
このように、科学技術の応用と科学的発見は、分かちがたく結びついていました。そしてその発展の推進力として、軍事や経済、産業、医療、社会政治などからの実質的な要請があったことが重要なものとしてありました。
科学技術の応用と科学的発見に深く関連する人物として、フランシス・ベイコンがあげられます。ベイコンは、自然哲学的知識は利用されるべきだと主張します。そのための方法として彼は、自然誌の編纂と、自然現象や実験などの観察結果の収集とその定式化を提唱しました。そこで得た理論を、利益を生むために用いるべきだとしましたが、その思想的背景には単なる功利主義とは異なる性質の目標がありました。それは、創造のときに神によって授けられながらアダムの堕落とともに失った人間の力と、自然に対する人間の支配を取り戻すというものだったのです。ベイコンはさらに、自然哲学の方法や目標を定めるだけでなく、その制度的・社会的構造まで構想していました。彼の構想は、社会の中で不安定な地位にいた17世紀の自然哲学者たちを鼓舞するものでした。
現代の科学をとりまく制度的・社会的構造は、ベイコンの構想していたものをいくつか備えています。すなわち主なものとして、研究を行う物理的な場所、科学者同士が交流する社会的空間、そして研究のための資金を援助してくれる後援の存在です。これら三つの特徴は、現代の科学が帰納する上で不可欠なものであり、科学革命期に学会という形をもって確立しました。
最初期の学会に、「山猫アカデミー」があります。数える程しかいない会員の中には、自然魔術の主唱者ジャンバッティスタ・デッラポルタやガレリオ、ヨハン・シュレックが含まれていました。個人の活動や研究から共同で行ったものなど、活発に活動は行われていました。1630年にアカデミーの創設者で貴族のフェデリーコ・チェージが亡くなったことで指導者と後援者を失った山猫アカデミーは解散へと向かい、設立から30年ほど経ったのちに解散します。
1657年には、メディチ家の宮廷で「実験アカデミー」が設立されました。その関心は、実験を行うことに集中しており、設立から閉鎖までの10年間の活動の中で、共同で実験を行う場としての学会という形を確立しました。17世紀半ばまでに、学会はアルプスの北へと広がります。1652年にドイツで「自然探求者アカデミー」が結成されました。多くの会員をもつこととなるこのアカデミーで会員同士を結びつけていたのは、会員が寄稿した論文を集めて発行された「年報」でした。このアカデミーは、最終的にこんにちの「ドイツ国立学術アカデミー・レオポルディーナ」に発展しました。
1650年代にオックスフォード大学で「実験哲学クラブ」といて知られるグループが会合を始めました。その活動は、自然哲学について議論し、機械装置を用いて実験し、解剖を観察することでした。1662年に王の認可状を受け、「ロンドン王立協会」として今日まで存続しています。その会員には、クリストファーやロバート・フック、ロバート・ボイルやニュートンも含まれていました。ベイコンの構想をその模範とし、国内にとどまらず海外からの報告や書簡も共有していた王立協会は、イギリスのほぼすべての著名な自然哲学者が会員であるほどにまで発展し、活発に活動が続けられていきます。しかしながら、重要な会員の喪失や財政的困難による活動の縮小という、初期の学会に共通した悩みをもっていました。また、協会外部からはけして良い目で見られているというわけでもありませんでした。そのような困難をかかえながらも、18世紀半ばには、組織としてしっかり確立され、活動を続けていくこととなります。
下から上へ創設された王立協会とは異なり、上から下へ設立されたのが、「パリ王立科学アカデミー」です。ルイ14世の財務総監ジャン=バティスト・コルベールによって、ある意図のもと設立されました。その意図とは、学芸を後援することで王の栄光を付加し、国家に有益となるように科学的活動を中央集権化することでした。アカデミーの会員たちは、国家的問題に科学的解決を与えることを期待されました。そのための設備や施設が王の後援によって設立され、会員たちには棒給と研究の援助が与えられました。これは、ベイコンの構想をうまく実現させたと言えます。また、王の援助のもと、パリ・アカデミーは、海外への調査におもむくことも可能となりました。その中で、地球の正確な形状を観測と測量をもって調べたり、異国の情報の収集を行いました。
1700年以降、科学アカデミーは急増し、その範囲はヨーロッパにとどまらず北アメリカにまでおよびました。国の誇りと成果の象徴となったアカデミーの他にも、ときに同じく重要でありながらもっと非公式な社会集団が存在しました。パリにおいては、個人の邸宅や公的な場所で開かれる「サロン」が、それにあたります。主催者の統率のもと、議論や会話、論争をするために人々が集いました。ロンドンでは、コーヒーハウスが様々な人との出会いと、自然哲学的な問題を含む多様な問題を議論する場を提供しました。そのような公衆の関心は、公開実演者の出演を促し、そこに集まった大衆は自然哲学者であり興行師である彼らから、娯楽と教育を享受しました。これら直接会って交流する場だけでなく、文通によるネットワークもまた重要でした。文通によって、同じ意見をもつ思想家たちを、国や言語、宗派の違いを超えて結びつけました。また、アカデミー自体、こうしたネットワークの結節点となっていました。
17世紀に技術的応用の重要性が増大したおかげで、科学探求の専門化が進行し、アマチュア自然哲学者がゆっくりと消滅していきました。科学の専門家を育成するための訓練の場は大学に用意され、19世紀には職業としての科学者が明確に出現することとなります。