E.J.ホームヤード『錬金術の歴史』第1章 序論

 

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

錬金術の歴史―近代化学の起源 (科学史ライブラリー)

 

 【第1章 序論】

 錬金術はキリスト誕生以前にすでに行われていた。その地理的範囲は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツといった西洋にとどまらず、モッロコや中国など、東洋にも及んだ。錬金術の最盛期は、およそ紀元前800年頃から17世紀半ばまでである。*1それに従事した者は、上は王など一国のトップ、下は下級僧侶や教会書記、職人にまで広がっていた。また、ロジャー・ベイコン、トマス・アクィナス、トマス・ブラウン、ジン・イーブリン、アイザック・ニュートンといった著名人さえ錬金術に深い関心を持ち、ウィリアム・シェイクスピアジェフリー・チョーサーの作品の中では錬金術が取り上げられた箇所がある。

 長い伝統をもち、様々な人々の興味をひきつけてきた錬金術の本性には、二つの面がある。ひとつは表向きの面で、非金属を貴金属に変える力をもつとされる「賢者の石」をつくることである。もう一つは隠された面で、この石づくりや石の持つ力を、神の恩寵や信仰と結びつけて考えられるようになったことから、金属変成を罪深い人間が完全な人間になる過程のシンボルとして扱った。この二つの面は、分けがたく混ざり合っている。石づくりのことについて述べていても、実際の物質に対しては関心がない場合もあり、その意図は神学的、哲学的、神秘的な信条や熱望を述べることであった。本書では、主に表向きの面である実際的な石づくりについて扱われているが、隠された面である秘教的な錬金術も念頭におかなければ、石づくりの正しい理解はできない。

 錬金術の二面性の他に考慮しなければならないのは、錬金術師の仕事の成功は彼らの生命に危険がおよぶことを意味する点である。成功したのではと疑われることさえも、十分に危険なことであった。また、たとえ王室の後ろ盾と許可を得て仕事をしていても、その危険性に変わりはなかった。したがって錬金術師は、身の安全のために、また、仕事によって得られた貴重な知識をほかにもらさらないために、自分の仕事について記述する際、寓意や比喩、ほのめかしや類比に満ちた言葉使いを用いた。そのため、必ずしも書かれているままを意味しているとは限らない。

 錬金術師が、その探求によって多大な危険が及ぶと知りながらも追い求めた「賢者の石」について、17世紀に匿名の著者によって書かれた著書『(水性の)賢者の石』に詳しく見ることができる。すなわち賢者の石とは、大昔の、秘密の、理解を超えた、神聖な、祝福された、三位一体の万能な石である。また、その石の材料は鉱物である。それを粉末にし、さらに三つの元素に分解し、それら元素を再結合させることで、蝋のような溶融性のある固い石になる。しかし、このような概略で示されるほど、実際の石の製造は簡単ではない。まず、原料から不純なものを全て取り除かなければならない。その操作に用いられる「太陽の水」として知られる水性の液体は、肉体と霊魂と精霊のエキスを蒸留したものに、今日連想されるであろうものとは別の固有の塩を加えて凝縮させる必要がある。また、石づくりの最中は、温度と色の変化や正しい過程を踏んでいるかに細心の注意を払い続ける必要があり、何かあれば即座に対処することができなければ、成功することはない。著者は、このようにして調製された賢者の石によって、あらゆる現世的な幸福、肉体的な健康、物質的な富がもたらされることを読者に想起させることで、この『賢者の石』の書を閉じている。すなわち、賢者の石のおかげでノアは箱舟をつくり、モーゼは金製の器と幕屋をつくり、ソロモンは聖殿と多くの装飾品をつくり、くわえて自身に長寿と無限の富をもたらしたのである。

 錬金術を意味する英語のアルケミー(alchemy)という語は、アラビア語で技芸を意味するアルキミア(alkimia)に由来する。「アル(al)」は定冠詞だが、キミア(kimia)の語源については諸説ある。一説によると、古代にエジプトを指す呼び名であったケム(kmtまたはchem)が由来であるとされている。錬金術は、初期の頃はエジプトで盛んに行われていたし、この説に沿うとアルケミー(alchemy)は「エジプト人の技芸」という意味になることからも一貫性があるといえる。しかし、古代の文献ではケムと錬金術の結びつきが全くないため、この説は否定される。キミア(kimia)の語源について有力な説は、ギリシア語で金属の溶融、鋳造を意味するキマ(chyma)に由来する説である。実際に錬金術は、多くの場合これらの操作に関わっていることからも、いっそう確からしい。それらの真実がどうであれ、ここまで言及してきたアルケミー(alchemy)や近代的な形であるケミストリー(chemistry)がアラビア語由来であることは確かであり、そのことは中世初期においてこの技芸の主要な担い手がイスラム教徒であったことを暗示している。

 錬金術語源はアラビアにあったが、その実際の営みの起源は人間の生活様式の変革からみてとれる。共同体をつくり、余剰収穫物ができたことで専門化した職人を雇うことができるようになり、おそくとも紀元前3000年までには様々な工芸が確立した。錬金術が明確な形で現れたのは紀元前数世紀だが*2
、その土台となる技術的な知識は錬金術登場以前から着実に重ねられており、その古代の職人たちの仕事は決して凌駕されることがないほど偉大であった。彼ら職人たちの仕事には、宗教的、魔術的な行為が伴っている。すなわち、金属、鉱物、植物、惑星、月と太陽、神々との間には関連があるとされ、特に天と地とを照応させる占星術体系は重要であると考えられた。錬金術師たちは、彼らから受け継いだ仕事とともに占星術の重要性もまた受け入れていた。占星術では、マクロコスモスすなわち宇宙と、ミクロコスモスすなわち人間との調和が強調され、宇宙での出来事は人間へ影響を与えるとされた。それは人間自体に関連されるだけでなく、薬や合金の調整を行うための好条件を見つけるためにも使われた。占星術において天宮図をつくる計算のために数秘術が現れ、ピュタゴラスが発展させた*3錬金術書の中でしばしば数秘術が見られることからも、占星術錬金術の関連がみてとれる。また、紀元前4世紀頃のギリシア人は、上記で述べてきた古代メソポタミアにおいてと同様に、占星術が宇宙でのすべてのできごとと関連があると考えていた。宇宙でおこるできごとの探求は、占星術以外でも進められて発展した。プラトンアリストテレスは、それらの思想的探求を体系としてまとめ、後の西洋文明に根本的な影響を与えることとなる。

 アリストテレスの物質の構造についての見解は、錬金術の表向きの面、すなわち賢者の石の理論的背景の大部分をつくっている。すなわち、あらゆる物質は、火・気・ 木・土の「四元素」から構成されているとした。さらに各元素は、各々対応する湿・乾・熱・冷の四つの質を通して、他のどの元素にも変成が可能であるとされた。したがって、どんな物質もそれを正しく処理し、その元素比を他の物質の元素比に合わせるように変えることで、どんな物質にも変成が可能となるのである。ここに金属変成理論の始点があり、錬金術師たちが途方もない仕事を行うそもそもの哲学的な裏付けがある。また、錬金術師たちの根本的な考えである「一は全、全は一」という宇宙観もまた、アリストテレス宇宙論に基づいている。くわえてアリストテレスは、金属や鉱物の生成について見解を述べており、それが錬金術師の思考を方向づける助けとなった。すなわち、アリストテレスは、互いに関係し合い、物質的とも精霊的ともつかない二つの「蒸発物」があると考えた。一方は霧状で金属に対応し、もう一方は煙状で鉱物に対応している。どちらの蒸発物もすべての物質と同じく四元素から成っているため、変成は可能であると考えられた。
 
 錬金術師の根本的な考えである、「一は全、全は一」であり、万有の精霊が浸透する「世界統一理論」には、宇宙におけるすべての物体が生命をもつという仮説が含まれている。それによると、金属も鉱物も成長し、性別が割り当てられるとされた。すなわち、金の種子に養分を与えると金塊に成長するのである。また、煙状蒸発物は男性で霧状蒸発物は女性であり、水銀は金属の胚が着床する子宮であった。このような理論とより合理的なアリストテレスの見解は分けられていたのではなく、むしろ混ざり合って体系をなしていたということも、錬金術の営みを理解する上で欠かすことのできない重要な点である。
 

*1: 今日の研究では、紀元後二世紀より前には遡らないだろうといわれている。

*2:紀元前というのは、今日の見地からは間違い。

*3:今日の知見から鑑みれば、注意が必要。

BHセミナー「『科学革命』を読む」第6回レジメ

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p -p

【第六章 科学の世界を組み立てる】
後期中世から現代に至るまで、科学は研究や知識の蓄積にとどまらず、その応用に関心が向けられ、実行されてきました。そしてそのことは、人間の日々の世界を根底から変えることとなりました。科学革命期である16・17世紀は、特に強く関心が向けられた時期でした。
 ルネサンス期のイタリアでは、古代の知が見直され、都市の改良や整備に活用されました。その背景には、実際の経験に頼る職人と、実際の事柄からは隔たってきた学者との間に生まれた、新興階級の存在がありました。その新興階級に属するのは、実際の問題を解決するために数学を用いた分析を行う人々です。その中に、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオがいました。彼らは、古代人を意識していました。
 科学革命期当時の知識と古代の知識を結びつけて応用した例は、他にもあります。15世紀半ばから16世紀半ばにかけておこった採鉱ブームによって得た知識を整理して発展させた人物に、ドイツの人文学者で教育家のゲオルギウス・アグリコラがいます。彼は、著書『デ・レ・メタリカ(金属について)』の中でドイツの採鉱の慣行と古代の文献を結びつけただけでなく、冶金学のためのラテン語の語彙を作り出し、卑しい事業とされかねない採鉱業の品位を高めようと奮闘しました。地図制作の発展においては、15世紀に再発見されたプトレマイオスの『地理学』が、応用されました。また、実際的な問題に科学技術を応用する際、科学的知識の発見が活用されていました。航海において重要でありながら不十分であった経度の決定のために、天体観測によって得た知識を用いる試みがなされていたのです。
 このように、科学技術の応用と科学的発見は、分かちがたく結びついていました。そしてその発展の推進力として、軍事や経済、産業、医療、社会政治などからの実質的な要請があったことが重要なものとしてありました。
 科学技術の応用と科学的発見に深く関連する人物として、フランシス・ベイコンがあげられます。ベイコンは、自然哲学的知識は利用されるべきだと主張します。そのための方法として彼は、自然誌の編纂と、自然現象や実験などの観察結果の収集とその定式化を提唱しました。そこで得た理論を、利益を生むために用いるべきだとしましたが、その思想的背景には単なる功利主義とは異なる性質の目標がありました。それは、創造のときに神によって授けられながらアダムの堕落とともに失った人間の力と、自然に対する人間の支配を取り戻すというものだったのです。ベイコンはさらに、自然哲学の方法や目標を定めるだけでなく、その制度的・社会的構造まで構想していました。彼の構想は、社会の中で不安定な地位にいた17世紀の自然哲学者たちを鼓舞するものでした。
 現代の科学をとりまく制度的・社会的構造は、ベイコンの構想していたものをいくつか備えています。すなわち主なものとして、研究を行う物理的な場所、科学者同士が交流する社会的空間、そして研究のための資金を援助してくれる後援の存在です。これら三つの特徴は、現代の科学が帰納する上で不可欠なものであり、科学革命期に学会という形をもって確立しました。
 最初期の学会に、「山猫アカデミー」があります。数える程しかいない会員の中には、自然魔術の主唱者ジャンバッティスタ・デッラポルタやガレリオ、ヨハン・シュレックが含まれていました。個人の活動や研究から共同で行ったものなど、活発に活動は行われていました。1630年にアカデミーの創設者で貴族のフェデリーコ・チェージが亡くなったことで指導者と後援者を失った山猫アカデミーは解散へと向かい、設立から30年ほど経ったのちに解散します。
 1657年には、メディチ家の宮廷で「実験アカデミー」が設立されました。その関心は、実験を行うことに集中しており、設立から閉鎖までの10年間の活動の中で、共同で実験を行う場としての学会という形を確立しました。17世紀半ばまでに、学会はアルプスの北へと広がります。1652年にドイツで「自然探求者アカデミー」が結成されました。多くの会員をもつこととなるこのアカデミーで会員同士を結びつけていたのは、会員が寄稿した論文を集めて発行された「年報」でした。このアカデミーは、最終的にこんにちの「ドイツ国立学術アカデミー・レオポルディーナ」に発展しました。
 1650年代にオックスフォード大学で「実験哲学クラブ」といて知られるグループが会合を始めました。その活動は、自然哲学について議論し、機械装置を用いて実験し、解剖を観察することでした。1662年に王の認可状を受け、「ロンドン王立協会」として今日まで存続しています。その会員には、クリストファーやロバート・フック、ロバート・ボイルやニュートンも含まれていました。ベイコンの構想をその模範とし、国内にとどまらず海外からの報告や書簡も共有していた王立協会は、イギリスのほぼすべての著名な自然哲学者が会員であるほどにまで発展し、活発に活動が続けられていきます。しかしながら、重要な会員の喪失や財政的困難による活動の縮小という、初期の学会に共通した悩みをもっていました。また、協会外部からはけして良い目で見られているというわけでもありませんでした。そのような困難をかかえながらも、18世紀半ばには、組織としてしっかり確立され、活動を続けていくこととなります。
 下から上へ創設された王立協会とは異なり、上から下へ設立されたのが、「パリ王立科学アカデミー」です。ルイ14世の財務総監ジャン=バティスト・コルベールによって、ある意図のもと設立されました。その意図とは、学芸を後援することで王の栄光を付加し、国家に有益となるように科学的活動を中央集権化することでした。アカデミーの会員たちは、国家的問題に科学的解決を与えることを期待されました。そのための設備や施設が王の後援によって設立され、会員たちには棒給と研究の援助が与えられました。これは、ベイコンの構想をうまく実現させたと言えます。また、王の援助のもと、パリ・アカデミーは、海外への調査におもむくことも可能となりました。その中で、地球の正確な形状を観測と測量をもって調べたり、異国の情報の収集を行いました。
 1700年以降、科学アカデミーは急増し、その範囲はヨーロッパにとどまらず北アメリカにまでおよびました。国の誇りと成果の象徴となったアカデミーの他にも、ときに同じく重要でありながらもっと非公式な社会集団が存在しました。パリにおいては、個人の邸宅や公的な場所で開かれる「サロン」が、それにあたります。主催者の統率のもと、議論や会話、論争をするために人々が集いました。ロンドンでは、コーヒーハウスが様々な人との出会いと、自然哲学的な問題を含む多様な問題を議論する場を提供しました。そのような公衆の関心は、公開実演者の出演を促し、そこに集まった大衆は自然哲学者であり興行師である彼らから、娯楽と教育を享受しました。これら直接会って交流する場だけでなく、文通によるネットワークもまた重要でした。文通によって、同じ意見をもつ思想家たちを、国や言語、宗派の違いを超えて結びつけました。また、アカデミー自体、こうしたネットワークの結節点となっていました。
 17世紀に技術的応用の重要性が増大したおかげで、科学探求の専門化が進行し、アマチュア自然哲学者がゆっくりと消滅していきました。科学の専門家を育成するための訓練の場は大学に用意され、19世紀には職業としての科学者が明確に出現することとなります。

BHセミナー「『科学革命』を読む」第5回レジメ

 

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

 

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

 Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p91-p

 

【第5章 ミクロコスモスと生き物の世界】
初期近代の思想家たちの注目を集めたのは、月の上の世界と月の下の世界だけではありませんでした。第三の世界は、人体というミクロコスモスです。
 人体の構造や機能、その健康の維持を探求し実践する医学は、初期近代の社会において、法学と神学に並んで重要視されていました。16世紀、その教えは、古代ギリシアヒポクラテス古代ローマのガレノスを核とし、中世アラビアのイブン・シーナー(もしくはアヴィセンナ)とラテン世界の知識が蓄積されたものでした。すなわち、「体液説」に沿っていたのです。体液説は、血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の4つの体液とその混合である「気質」のバランスを保つことで、人体の健康が維持されるという考えです。4つの体液は、アリストテレスの4元素に対応していると考えられていました。また、人体というミクロコスモスは、天界というマクロコスモスの影響を受けているとされました。したがって、惑星の位置を特定する占星術は、医学において重要な役割を担っていたのです。医者の役割は、患者各々の独自の体液比率、すなわち「体質」を占星術による出生天宮図から把握し、患者本来の体液バランスに回復させるよう援助することでした。その診断のために、惑星の位置を知るだけでなく、患者の尿を調べたり脈を計ったりしました。このような方法は、免許をもつ医者のあいだでは科学革命期後の18世紀まで、劇的に変化することはありませんでした。その一因として、医学校や医者のギルドが保守的であったことがあげられます。医療における革新は外部から、すなわち、当時大都市以外のほとんどの地域で医療を担っていた無免許の医者、「経験医」たちによって引き起こされます。経験医たちは、その治療が成功するか否かに報酬の有無がかかっていました。そのため、パラケルススやファン・ヘルモントなどの新しいキミア的医学のアプローチを積極的に採用していきます。この動きは、ゆっくりと正規の薬局や医療機関に取り入れられていきました。伝統的な医療と対立することとなったキミア的医療は、論争を繰り広げながらも着実に結果をもたらし、認められていきました。
 人体というミクロコスモスを探求する営みは、解剖学においても行われ、初期近代に大きな発展をとげました。人体の解剖は、古代より重要性が説かれていながら、当時の社会的・倫理的な問題により、実行することがほとんどできていませんでした。しかし後期中世にはいると、イタリアの医学校において一般的なこととなります。関心の高まる人体解剖学の知識を広く普及させた書物として、アンドレアス・ヴェザリウスの『人体の構造について』があります。多くの人体解剖を行ったヴェザリウスは、豊富な挿絵とともに人体の特徴や構造をきわめて詳しく説明しました。
 解剖は、人体に限れられていたわけではありませんでした。17世紀に入ると、パリ王立アカデミーでは、ダチョウやライオンなど様々な動物を解剖しました。ロンドン王立協会では、生きたままイヌの解剖を行っただけでなく、様々な液体をイヌの体内に注入し、その動きを観察しました。このような体液や血液の運動への関心は、ウィリアム・ハーヴィの血液循環についての議論に、部分的に由来します。ガレノスによる医学の伝統的な考え方では、動脈と静脈は分離しているものと考えられ、血液が心臓にもどることはないとされていました。ハーヴィは、解剖と観察の結果、血液は体内を大きく循環し、心臓がその中心的な役割を担っていると結論づけます。これは、アリストテレスが最も完全なものとみなしたマクロコスモスの天が行う円運動を、ミクロコスモスの人体がまねていると解釈できたため、ハーヴィは自分が導いた結論をより確信しました。ここに、科学革命期においてアリストテレスが重要であり続けた一例を見てとることができます。
 動脈と静脈をつなぐ毛細血管の存在は、マルチェロマルピーギによって発見されました。彼がこの発見のために用いた道具が、当時比較的新しい発明品であった顕微鏡です。顕微鏡は、望遠鏡と同様に新しい世界を明らかにしていきました。様々な人によって途方もなくい多くのものが顕微鏡で観察されただけでなく、顕微鏡自体の改良も進められていきました。その中で得た発見の一つに、服地商で測量技師のアントニー・ファン・レーウェンフークの精子の発見があります、これは、動植物の発生について、論争を引き起こすこととなりました。すなわち、前成説と後成説の対立についてです。前成説は、人がその形を成す経緯として、精子あるいは卵の中に子どもの小型版が含まれているという考えです。対して後成説では、胎児は母親が妊娠している最中に段階を追って形成されていくと考えられます。この後成説は、特に機械論哲学者に歓迎されました。顕微鏡は、生体に機械論的な構造が存在することを明らかにしました。そのため、17世紀後期の顕微鏡による実験は、ほとんど機械論者たちによって行われます。一方で、顕微鏡による精子の発見は、前成説に有利な解釈をもたらしただけでなく、生体の複雑な構成を明らかにしたため、後成説や生体についての機械論的な説明が不十分なようにも見えました。このように、顕微鏡による観察は、矛盾する解釈が可能だったのです。この対立する考え方が同時に繁栄する動きは、17世紀において非生物と生物の区別が明確でないことや、機械論的な体系と生体論的な体系が混在したことにおいても見てとれます。その背景としてあるのは、アリストテレスの霊魂の概念です。科学革命期当時の人々は、生体の機能や構造は機械論的に説明でき、生体の組織化や維持は霊魂によって行われるという思考的基盤を共有していたのです。
 17世紀に登場した最も包括的で新しい医学は、貴族で医師、キミストで自然哲学者である、ヤン・バプティスタ・ファン・ヘルモントによって体系づけられました。ファン・ヘルモントは、アリストテレス 的な四元素やパラケルスス的な三原質を否定し、水こそがすべての基本元素であると主張しました。そしてそれを、実験と観察によって確かめます。そのひとつにヤナギの苗木を使ったものがあります。5年間ヤナギの苗木に水を与え続けたもので、その結果、ヤナギの木の重さは増加しましたが、土の重さはほとんど減ることがありませんでした。そのことから、ファン・ヘルモントは、木の全体の構成は水だけからつくられたと結論づけたのです。水をあらゆる物質に変換するものは、「セミナ」(種子)であると彼は考えました。種子は、あらゆるものを組織化する非物質的なものと説明します。この種子は、火と腐敗によって破壊されて空気のような物質に変化します。彼はこれを、カオスという語に由来して「ガス」と呼びました。このガスが大気の寒冷な部分で水へと変換し、雨となって落下することで、自然界でも水があらゆるものに変化し循環するのだと説明します。水がすべての、ただひとつの元素であるとしたファン・ヘルモントは、身体は基本的に化学的に営まれていると考え、体液特に尿の分析を行います。化学的な営みが行われている身体で、その機能を調整し支配するものは、準霊魂的な実体である「アルケウス」によって行われると説明されました。よって医療とは、アルケウスを強化することであったのです。ファン・ヘルモントの説明では、病気になるのは体液の不均衡のせいではなく、病気の「種子」が体内に侵入し、身体を変質させるからなのでした。また、精神や情緒の状態が、体内の物理的変化を引き起こすと主張します。このようなヘルモント的な思想は、医者や生理学者、キミストに深く影響を与えます。医学にとって化学が重要であることを主張する者が現れ、医学教育が改革され、18世紀に起こる医学の重要な変化の基盤を構成することとなったのです。
 植物と動物の研究は、16・17世紀に著しく拡大しました。そのテクストは、百科事典の形をとっていました。動植物に関する百科事典の説明は、様々な種についての詳しい記述と、古代以来蓄積されてきた動植物にまつわるおびただしい量の文学的・語源的・聖書的・道徳的・神話的、そして比喩的な意味が混ぜ合わされたものでした。つまり、当時の動植物に関する説明は、文字通りであると同時に象徴的メッセージの含まれたものだったのです。よって、一角獣や竜など架空の動物についての記述は、当時の人々がその存在を信じていたためでなく、その意味するところに重要性があったのです。このような伝統的な記述方法は、転換期を迎えることとなります。科学革命期に発展した医学と航海術によって得た膨大な量の知識を古代からの知識と照らし合わせて編纂する際、古代から初期近代へ橋渡し、または新たなカテゴリーを創出する必要がでてきたのです。よって、寓意に満ちた伝統的な百科事典の説明は、写実的な説明へと転換することとなります。航海術の発展による新世界との出会いは、新薬の探索と新しい植物の研究を促しました。その結果、ヨーロッパ各所の医学校に付属の植物園が設立されます。めずらしい植物に対する関心は、医学校内にとどまらず個人にまで広がり、異国風なものや希少なものを収集して各々の陳列室へ収容しました。これは、博物館の先駆けであり、また、収集家たちの富や権力、関心を展示しているだけでなく、自然物と人工物への人々の関心を引き立たせました。陳列室に収容された事物の実際の配置には、事物同士の結びつきを見てとることができました。人間と自然の営みが連結され、圧縮されたこの空間は、まさにもう一つのミクロコスモスであったのです。

BHセミナー「『科学革命』を読む」第4回レジメ

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p67-p90


【第四章 月の下の世界】

 初期近代の人々は、地球や四元素、変化と運動の過程を再検討し、事物の意味を理解することを目指して、一連の体系を定式化しました。それは、あるひとつの世界観を徐々に作り上げていったというものではなく、様々な世界観が各々認められようと競い合う様相を呈していたのです。しかし、共通点はありました。それは、いずれもアリストテレス的世界観の影響を受けていることです。ある者はそれにとって代ろうとし、またある者はそれを洗練しようと試みました。
 初期近代の自然哲学者たちが、地球の歴史について、聖書にしるされている年代よりも過去にさかのぼれるという見識をもつのは、解剖学で台頭したニコラウス・ステノのよる発見がきっかけでした。ステノは、泥が沈積して地層をなしており、それを分析すれば地球の変化の歴史を読み解けると結論づけたのです。17世紀の終わり頃には、何人かの著述家がステノの研究をもとにして、地球のたどってきた歴史や地球の外観を説明しようと試みました。地表の変化については、イエズス会士のアタナシウス・キルヒャーによって、じかに研究されることとなります。キルヒャーが火山の噴火をよく観察した結果、噴出する火と溶岩の量が火山内部でつくられているには多すぎることに気づき、火山の地中深くに巨大な火を収めた複雑な内部構造があると結論づけます。この地下構造は、海流をも説明しました。キルヒャーは世界中のイエズス会宣教師たちの報告を主とした多くの情報からデータを集め、百科事典的著書『地下世界』を、ふんだんな世界地図とともに編纂しました。
 地球の目に見える変化を観察したキルヒャーとは対照的に、エリザベス1世の侍医であったウィリアム・ギルバートは、地球の目に見えない変化、すなわち磁石の働きについて明らかにするため、実験を行いました。ギルバートは、球形磁石の上に置いた鉄の針が、地球の上にある羅針盤の針の振る舞いと同じことを発見し、地球が巨大な磁石であると結論づけ、球形磁石を地球のモデルと見立てて実験をし、物体がなぜ落下するのかを説明しようとしました。
 それに対して、どのように物体が落下するのかを数学的に説明しようとしたのが、ガリレオです。ガリレオのアプローチは、技術者的であると言えます。その背景には、実生活に役立つ知としての科学が求められていたことがありました。その一つであった給水設備のための研究の中で、ガリレオの信奉者たちによって「真空」が発見されます。彼らは、真空はあり得ないと主張するアリストテレス主義者たちと対立することとなりました。真空はあるとする者たちは、実験でそれを証明しようとしました。その実験は、近代科学の祖とされるロバート・ボイルも行っていました。ボイルは実験の中で、火と空気の関係性を発見します。
 火については、初期近代よりずっと以前から人々の間で議論されてきました。その中に、錬金術師たちがいます。彼らは、火を物質とその変換を研究し制御するための第一の道具として用いていました。科学革命期は、錬金術の黄金時代でした。その時代、錬金術と化学は、今日のように分けて考えらえておらず、同じ探求であったのです。このような捉え方を、現代の歴史家は「キミストリー」すなわち「キミア」という語を用いて表します。錬金術という語から連想されるように、今日では錬金術師の仕事は金作りと思われがちですが、それは正確ではありません。錬金術師たちの仕事は、物質を完全にすることにありました。そのためには、物質のなかの成分を正しい配分に変成する必要があり、その調整に必要な媒介物質を、彼らは「賢者の石」と呼びました。錬金術が今日、化学と切り離されて考えられがちな一因として、錬金術師たちの文書が、隠喩やみせかけの名称にあふれていることが挙げられます。彼らは、知識をそれにふさわしくない人々には漏らすべきではないと考えていたため、あえて分かりにくい表現を採用していました。このことは、所有権を企業秘密として保護する必要のあった職人の慣行に、部分的に根ざしています。
 「物質を完全にする」ことは、人体にもあてはめられました。そのことから錬金術は、医学へも応用されます。その実践者の一人であったパラケルススは、医薬品づくりにとどまらず、人体と宇宙とを呼応させた世界観を提示します。世界の創造主たる神とはプラトン主義者のいう幾何学者ではなく錬金術師であるととらえた彼の論は、キリスト教的世界観とよくなじむものであったことも一因して、多くの信奉者を引きつけました。しかしながら錬金術分野は、商業や職人的分野と密接な結びつきをもったために古典としての正統性を誇れず、大学の学問として確立することができなかったため、主に大学の外で研究されていくこととなります。
 錬金術は、17世紀の最も重要な動きの一つであった原子論の再登場にも関与しました。13世紀に、偉大な錬金術師の名として知られるゲーベルが、物質が粒子の結びつきでできていると説明したことに起因します。原子論は、フランスのピエール・ガッサンディによってキリスト教化され、機械論と結びついて復権しました。これは、アリストテレス的世界観に反するものでした。しかし、多様で複雑な自然の営みと説明しきれなかったために、機械論は17世紀の終わりまでに衰退することとなります。
 科学革命期においてアリストテレス主義は、自然哲学者たちの探求の出発点となったと同時に、新しい世界観に批判され、取って代わろうとされたり、組み替えられようとされたり、洗練されたりしました。そのような多様な視点からのアプローチがなされたことが、16・17世紀を革命期たらしめている一因と言えます

BHセミナー「『科学革命』を読む」第3回レジメ

 

Very Short Introductions: Scientific Revolution No.266

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科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p39-p66

 

【第三章 月より上の世界】

科学革命の起きた1500年頃の知識人にとって、宇宙は月の下と月の上の二つにわかれていました。これはアリストテレスによって設けられたもので、月の下、すなわち地上は変化のたえない領域であり、月の上、すなわち天空は不変の領域であるとされました。このうち月の上の構造についての学問、すなわち天文学が、科学革命の主要な分野を担うことになります。

 天体の動きを物理的・数学的に説明するために、古代のギリシアの人々は星々の観察を始めました。比較的遅く運動する星を「恒星」と名づけ、それに対してよく動くように見える星を「惑星」と名付けました。それらの運動は黄道帯という狭い帯状の領域に限定されています。さらにその黄道帯を十二等分し、ひとつひとつに宮を割り当てました。

 このような天体の動きに関して、プラトンは、数学的法則によって動いていると考えていました。また、プラトンの弟子のエウドクソスは、地球を中心とした同心天球で組み立てられた、数学的な宇宙モデルを提案しました。しかしこのモデルは、観察されたものを正確に説明できないという難点がありました。惑星の明るさが変わることを、説明できなかったのです。この問題は、プトレマイオスの「周転円」のモデルにて説明されました。このことによって、地球の位置は天体の中心から端へ移ることになります。このプトレマイオスのモデルは数学的説明はなされましたが、重い物体は宇宙の中心へ落下するというアリストテレスの自然学との間に矛盾が生じることとなりました。中心にない地球は、中心へ動いているはずなのに、実際にはそうではなかったからです。この食い違いの折衷案を示したのが、イブン=アル・ハイサムでした。彼のモデルでは、中心に地球があったからです。しかしながらこのモデルにも問題点がありました。それらの問題点は中世ヨーロッパの天文学者達へ継承されていき、自然学的に満足のいく説明がなされるよう洗練されていきました。

 それまでと一転した案を提示したのが、コペルニクスでした。彼は、地球ではなく太陽を中心にすえたのです。このモデルは、地球を中心とするモデルよりも観測データに適合しないばかりか、自然学的にみても納得させるものでもありませんでした。そして最も問題だったのが、動く地球というのが自然学的にも、当時の常識にも、また聖書とも相反するものだった点です。しかしコペルニクス自身は、観測により証拠がなくても、この説が正しいと確信していました。人文主義者である彼は、プラトンより後の世につけられた付加物をとりのぞいた、より調和のとれたモデルが真の宇宙の姿であると考えていたのです。このコペルニクスの宇宙モデルは、天文学者にとって、真実でないにしても価値のあるものでした。というのも、惑星の位置を決定するための計算は、太陽を中心としたモデルのほうが簡単だったためです。当時の多くの天文学者にとっての第一の関心ごとは、ある時刻にどこに惑星があるかということでした。地球が中心か太陽が中心かどちらが正しいかということは、確実に説明できるものではないと考えられていたのです。また、これら天文学者の研究の背景には、惑星の位置を精密に計算する必要のある占星術がありました。多くの天文学者は、占星術によって生計を立てていたのです。

 天文学が天体の位置を計算し、宇宙モデルの仮説を提示していくのに対し、占星術は天体が地球におよぼす効果を説明し、あらかじめそれを把握しようとします。この占星術の営みは、太陽の位置が季節をつくることや月の満ち欠けが人体に影響を与えることからもわかるように、自然のしくみに依拠した合理的なものです。占星術にはいくつかの分野がありました。次の年の天気を予言する「気象占星術」、治療において天体の人体への影響を考慮するため用いられた「医療占星術」、天体の新生児への影響を読み解く「出生占星術」などです。占星術は、その人特有の気質を示し、健康であったり危険な時期、あるいは物事をするのに都合の良い時期を予測することで、人が行動する上での判断材料とすることもまた目的としていました。

 コペルニクスより後、ティコ・ブラーエの新星・彗星の観測によって旧来の宇宙観が根拠をなくし、ケプラーによって古代からの円運動の固定概念がうすれ、望遠鏡を用いたガリレオの観測によって月より下の世界と月より上の世界の本質的区別がなくなり、ついにはニュートンが天体の運行とりんごの落下を全く同じ数学的法則によって記述することに成功しました。

 しかしニュートンは、天体の運行を説明するだけでは満足しませんでした。これらのしくみの原因を見つけたいと考えていたのです。なぜなら彼は、太古の昔にあった知こそが真実であり、それが年を経るにしたがって廃れてきてしまっているという「原始の知恵」という考え方を信じ、世界に隠されている神の意志を読み解くことが使命であると考えていたためです。このように、近代的科学者と言われている彼の思想的背景には、現代よりもより包括的な視点があったのです。

 

BHセミナー「『科学革命』を読む」第一回レジュメ

 

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

The Scientific Revolution: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)

 

  

科学革命 (サイエンス・パレット)

科学革命 (サイエンス・パレット)

 

 Scientific Revolution: A Very Short Introduction ,Lawrence M. Principe,Oxford University Press; 1st edition (May 19, 2011) p4-p20

 

 初期近代におこったとされる科学革命を知るには、その基盤となった中世とルネサンスについて知る必要があります。なぜなら、初期近代において新しいとされていた問いやそれに答えるための方法は、すでに中世にあったものだったからです。また、通常ルネサンスから連想されることは芸術や建築の類のものですが、それ以上に文学・詩歌・科学・工学・行政・神学・医学などの繁栄を築いたと言えます。このルネサンスがもたらしたもののうち、科学革命の基盤として特にあげられるのは、翻訳運動の広まりと大学制度です。また、科学革命期の生活環境的背景として、11世紀からの温暖な気候による豊富な食糧の確保、またそれによる人口増加と安定した社会システムが、学問と思索のための時間を生み出したことがあげられます。その後14世紀半ばに猛威をふるったペストによる人口の半減も、その当時の人々に大きな影響を与えました。本章では、このような時代に生きる人々の世界を根底から変えたものとして、「人文主義の隆起」「可動活字を用いた印刷術の発明」「新世界の発見」「キリスト教の改革」の4つを取り上げ、科学革命の基盤をなすものについて論じています。

 

 人文主義者たちは、自分たちは古代以降の暗黒時代を脱した新時代の住人であり、尊敬すべき古代人たちの成果を上回らなければならないという意識を共有していました。そのことから古代ギリシア語が復興し、プラトンプラトン主義者たちの文書の翻訳が進みました。人文主義者たちがたくさんの新しい文献を得たことにより、大学の内外に新しい流れを生み出しましたが、古代賛美が過剰なあまり、アラビアや中世への敬意を失い、それによってその知識さえも失い始めてしまうことになりました。

 

 1450年前後に可動活字による印刷術が発明され、より速く、正確な本を大量につくることができるようになりました。そしてそれは、人文主義者たちの文書への関心を高め、情報伝達のスピードを大幅にあげることになります。また、文字だけでなく図像の複製能力も以前とはくらべものにならないほど進歩しました。このことは、図像の発展へとつながっていきます。

 

 印刷術の発明とそれによる図像の発展は、新世界の情報伝達に大きく貢献しました。航海を経て持ち帰られた大量の情報は一気にヨーロッパ中へ拡散し、人々の持っていた旧来的世界観を更新していきました。そしてその大量に流れてきた情報は、旧来的自然観の再考をうながしました。また、さらなる知的・物的収穫を求めて、科学技術や地図づくり、航海術、造船術や軍備の改良がすすめられました。

 

 新世界との出会いは、ヨーロッパ人にとって多様な宗教観との出会いでもありました。一方で、彼ら自身の宗教観も多様になっていくこととなります。1517年からの宗教改革によりキリスト教世界が分裂し、それによって生まれたプロテスタントの大学では、カリキュラムと教授法が一新され、新しい科目や研究方法が導入されました。他方、カトリック内部でも改革運動は進行していました。対抗宗教改革がおこり、トリエント公会議では、司祭に対する教育の改善と、出版物において正統的教義が保たれているかの監視を強化が提唱され、イエズス会が熱心に取り組みました。イエズス会は何百もの学校や大学を発足させ、数学や科学を重視したカリキュラムを編成し、科学革命に関与することとなる多くの思想家を育てました。また、航海によって新たに開拓された交易路をつかって新世界へと進出し、多くの知識や習慣を獲得して蓄積していきました。

 

 このような、中世・ルネサンス以来の伝統、ヨーロッパ内での変化、そして新世界との出会いとそれによる知識の更新や拡散が、科学革命の土台をなすこととなります。